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和光大学祭についてテッテ的に話せる掲示板
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20世紀の和光大学祭は終了しました(だかしかし!)
まつなが 今世紀最後の革命的抗議声明文 2000年12月31日(日)23時39分23秒
じつのところぼくは、2000年の学祭は当日も行けなかったし、学祭会議も見物できませんでした。
ところでしかし学祭終了後の11月8日、表現文化学科主催の押井守らのトーク・イベントを見に大学へ行ったところ、以下の内容のビラが置いてあって、同じものが巨大なタテカンになっていました。※ビラの体裁はB4(横長)、縦書き、ワープロ打ち。
再電子化は松永による。原文のルビを[よみ]に変更。■ 抗議声明 ■
本00学祭を、〈22時学祭終了〉を学生に押しつけた
和光大 千野当局への抗議の意志をこめて実現する!二〇世紀最後の和光大学祭を、私たち00学祭機構に集うすべての参加団体は、憤懣[ふんまん]の思いで実現せざるをえない。和光大千野当局が、学祭会議で決議された学生の要求すら踏みにじりながら〈22時学祭終了〉を強要してきたことを、私たちははねかえすことができなかったからである。
この間、千野当局は「22時学祭終了を認めなければ、カネも出さないし、電気も場所も貸さない!」などという許しがたい脅しをかけてきた。終了時間の限定をつけない学園祭として本00学祭を立ちあげ、学祭会議で話し合いを積み重ねつつ、00学祭を成功させることを目指してきた、このような私たち00学祭機構のすべての学生の意志を、千野当局は一方的に踏みにじってきたのだった。しかもこの大学側の姿勢を認めがたい私たち学祭機構が、それにもかかわらず大学側の意見も聞きつつ対立点を解決するために、大学側との直接交渉の開催を求めるという当たり前の要求に対してすら、彼ら当局者は「交渉にあたる教職員が監禁される恐れがある」などと、荒唐無稽な屁理屈を述べたて、この直接交渉すら拒否したのだ。その他方で彼らは、“千野学長がチェコに行く前にこれにサインしろ”などと、大学側が自ら準備した22時学祭終了を強要する確認書への一方的な署名を、私たち学生側に強要してきたのだった。これが“民主的な大学・和光”を押し出す大学当局者による学生側との“交渉”なるものの実態であった。
カネによる脅しの上に学生側を屈服させたことを見届けた千野学長は、一〇月二三日、悠然とチェコヘと(一説では「勲章授与」のために)発[た]ったのであった……。この和光大当局の姿勢は、明らかに和光大学の学生自治の伝統を破壊するものにほかならない。今年初めて学祭参加企画の内容・主催者の大学への届け出を強要してきたことにも示されているように、こんにち千野和光大当局は、わが学祭を大学当局管理の・大学いいなり学祭として変質させようとしてきているのだ。長きにわたる先輩たちの苦闘のうえに築き上げられてきた、学生自身の手による学祭の自治の伝統をば、彼ら和光大千野当局は、“和光大再編にとっての障書”として破壊してきているのだ。全国の多くの大学で学園祭の“規模縮小・大学当局いいなり化”が、政府・文部省の圧力のもと、各大学当局によって強要されているという、この否定的な潮流に千野和光大当局自身みずから加わりながら。
だが、私たち00学祭機構に集うすべての学生・参加団体は、この当局の動きを、痛苦にも阻むことができなかった。機構役員をはじめとした学生側の弱さのゆえに。大学側の高圧的な姿勢に対して、学祭基調文を貫くために機構全体として声をあげていくべく学祭機構役員は、全体をリードするべきであったにもかかわらず、一部役員はいっかんして後手後手にまわるばかりであった。また参加団体としても、そうした一部の機構役員の姿勢を改めさせることを、なお一歩なしえなかったのであった。本00学祭よびかけ当初とは異なり、このように不本意な形でしか学祭を実現せざるを得なくなったという今年度学祭機構の弱さを参加団体全体で克服していかなければいけない。
だからこそ私たち00学祭機構に集うすべての学生・参加団体は、本学祭を前にしてこの抗議声明をあげるものである。これ以上の学生自治の破壊を許さず、本学祭そのものを実現するために。また、本学祭への来場者のみなさんに、この学祭にはらまれた深刻な問題を、こんにちの和光大当局の本当の姿を、知ってもらうために。そして何よりも、いっていの後退を強いられた、一部の機構役員をはじめとした私たち学生側の弱さそのものを克服し、きたる二一世紀最初の和光大学祭を、学生自治の真の伝統をよみがえらせた姿で実現していくために!
以上、決議する。
二〇〇〇年一一月一日
00学祭機構第一五回学祭会議00和光大学祭機構
……これを見てぼくは、深刻だなあ、と思いました。どうせならゲバ文字で書いてあればよかったかも。(思い出すに、去年出た抗議文はすばらしかった。)
まァ「二一世紀最初の和光大学祭」までには最大で100年ほど時間があるので、そのころまでには和光に“よき学生自治の精神”が根付いていることを期待してやみません。
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かねだ 和光関連の掲示板をつくりました。 2000年11月24日(金)01時00分03秒
掲示板の宣伝ですみません。
和光大学にゆかりのある人たちのための掲示板をつくりました。
JBBSの「2ちゃんねる」タイプの掲示板なので、学祭やゼミ情報などなどについて、スレッドごとに議論することができます。
書き込みをお待ちしています。
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かねだ 「うにや」について 2000年11月01日(水)01時25分19秒
今年の学祭ですが、夜10時終了で決定だそうです。
で、学外者(OB)が来ても坂下にいる防備隊に阻止されて、学内にはまったく入れないようです。
また、A棟前ですが、「うにや」を建てるスペースが厳しいということが判明しました。以上のことから、現在「うにや」の場所をどこかに移動しようと考えています。
ヘタに防備隊と衝突してもなんなので、サー連広場のあたりに移そううかと考えています。
とりあえず「うにや」企画は存続中なので、学祭を朝までやりたい方は「うにや」まで来てください。
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かねだ A棟前ステージ&「うにや」復活!! 2000年10月24日(火)01時08分18秒
おひさしぶりです。
今年、訳あってA棟前ステージ企画「ビーバーの牙」の手伝いに動員されてしまいました。
で、ステージを作るさいのパイプが余るそうなので、ステージ脇に懐かしの「うにや」を建てようと思っています。
OBの皆様方、学祭にお越しの際は「うにや」に是非立ち寄ってください。
なお、「うにや」は当然ながらゲリラ企画なので、そこのところよろしくお願いします。
追記:1.A棟前ステージでは、11/5にジャズトライブ「渋さ知らズ」のライブが行われます。5日の「うにや」は彼らに占拠されることでしょう。
2.今年の学祭に関して詳しい情報がまったく見当たらない状況ですが、学祭OBとしてのグチが僕のサイトの日記に書いてあります。もしよかったらそちらもご覧ください。僕としては、今年の「学祭機構」に「学祭機構」という名前を使われるのは非常に腹立たしいです。
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moai 学祭会議。 2000年10月21日(土)08時08分12秒
久々に出たら、7時頃ようやく開始。 もうあと2週間ちょっとなのに、大丈夫なのかなぁ。 中止にはなって貰いたくないけど、 でも、かなり心配だ。
ラプサン ごめんなさいね! 2000年09月28日(木)00時34分30秒
いやあ、すーさんお久しぶりです。 それとこのBBSの主催者の方、突然OBが出てきてすみません。 私のカキコは刺激というか、在学生の方の「激しい反応」を呼び起こせないかと思って投稿したものです。 が、まさかご無沙汰している86事務局長からの書き込みがあるとは思いませんでした。 すーさんは、動静はよく見ていたようですが、私は10年近く全く和光のことを見聞きせずにいたものですから、かなり無責任に意見を言ってしまったようです。 在学生からの活発な反論などを期待していたのですが。 これを機会に議論の場となるといいのですがね。 こんな場を借りてすみませんが、すーさん、メルアドなど連絡いただけますか? このBBSの私のメルアドに連絡いただければ、公式の(BBS主宰者の方ごめんなさい・でも事情わかるよね)アドレスで連絡します。 modelmaster@geocities.co.jp
すーさん、私も仕事でお付き合いあるけど言葉が相変わらず「カンリョウ 」してますね。あ、マズイか。 どうもすみません>BBS主宰者の方 BBSのCGIなかなか使い勝手いいですよ。 では。
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すー 遠い過去のこと・今のこと 2000年09月24日(日)07時05分17秒
この場を借りてご無沙汰です。86事務局長です。
その折はお世話になりました。
的確な事実たる事象の叙述はさすがのものですね。
たずさわったことがあると、いろんな人達がそれぞれの異なる思いの中で
同じ時間、同じ空間を共有していることを、知らずにはいられないから、
一方的な断定的主張ができるものではないですよね。
ところで、どう伝えるのか。
もちろん、これには「不完全に伝えてよいのか」から、
伝えるべきなのかまでを含むのですが、葛藤はありますよね。
大体の場合、学生というのは4年で総入替えしていくわけですけど、少なくとも
学校から離れてしまった後には、当時流にいえば「主体の形成」なるものはかけら
もない訳ですし、かといってOB然としてもっともらしいこと言うってのも、我々
の知る限りは、むしろ避けるべきものとして来たと思いますし。
もちろん85会計局長さんもご存知のとおり、もっと過去には6年生7年生や怪
しい「聴講生」なんかがごろごろ居て「こうせねばならん」ってな束縛みたいのが
蔓延していた時期もあって、といっても私が入学する以前の話が大部分なので間接
的に確認するほかなかったのですが、そういう中で問題解決能力に閉塞が生じたの
が、あの事態を招いた主たる要因を構成している面は否めないと思うんですよ。
そういう意味では現在問題となっていると思われる、外からではよく分からんか
らあくまで仮定と推測に基づかざるを得ませんが、この状態というのは問題解決に
行き詰まりがあって、それを制度の中に収斂させるという方法による解決を目指し
ているようにに思える点で、明らかに我々の手法とは異なる指向性であるようにも
感じます。
もちろん、それは世の中の常識では普通の手法ではあるんですけど、ではなぜ我々
がそうしなかったのかをもっと探ってもらえればと思っていますが、どうでしょうか。
昨今の立論の中で思わずニヤけそうなところって結構ありますよ。
当然、肯定的な意味を多分に含んだ笑いではあるのですが。
では、我々に説得力があったかといえば、これもまた確たるものがあったわけでは
ないですが、今となってみれば、少なくとも結果は出してますよ。
そうでなければ、今こんなことが話題にもなり得ないんですから。
昨年の「沈黙の・・・」はいいアイディアだったと思いますよ。
情勢的にはあのような事態も想定され得る状況であったことは確かですし。
いかがでしょうか。
誤解を招くことを避けるために申し上げますが、以上のことは現在携っている人達を
積極的に否定するものでも肯定するものでもありませんし、ましてや何かを積極的に期
待するものでもありません。
もし許されるならば、今のあり様を垣間見る機会をいくらかでも留保いただけるなら
と思う程度のことです。
以上のことから、いくらかでも隠されたノーティスを探りだし、今の人達の問題の解
決の一助にでもなればと思います。
85会計局長さん、ぜひ時間を作ってまた会いましょう。
それとも、焚き火でもしますか。
黒パンフの事務局長及びリベラの経営者様はご結婚されました。
いやぁ。それにしても当時培った特殊技能を皆さん充分生かして社会に適応しているっ
てのは驚く限りです。
おじゃましました。失礼します。
ラプサン 遙か昔のOBより 2000年09月15日(金)21時26分47秒
偶然にこのページを見ました。 私は85年にサー連に係わり、85学祭で会計局長を務めた者です。
記事を拝見したところ、99学祭で傷害事件が起きたようですね。
その昔、和光の学祭では事件が付き物でした。83年から87年の学祭では毎年傷害事件が起きていました。一升瓶で頭を殴ったり、窓ガラスに激突して手首の静脈を切断したり。放火騒ぎで部室棟付近からD棟の3階近くまで火柱が上がったりと、事件が起きない年はありませんでした。
しかしただの一度も警察や救急車を呼んだことはありません。
革マル派や中核派の活動家がウロウロしていたこともあり、内部に警察を入れることはできなかったこともあります。2・5襲撃以来、サー連も中核派系だのとレッテルを貼られていたので、こちらまでパクられたり調べられたりする可能性があったからです。多くの学生が警察を敵視していた時代です。では、どうしていたか? 防備隊だけの対処ではなく、その場にいた学生たちや聴講生で来ていた外科の看護婦さんなどが協力して手当をし病院に連れていったりしたのです。原因の多くは泥酔によるもので、加害者も和光の学生でした。外部の者による事件は、自然と周囲が防止していたこともあります。
防備隊は、義務的に行っていたのではなく、一種独特の企画ノリで結束していました。
自分たちの大学は自分たちで創る、という意識があったからだと思います。 それともうひとつ、学祭は戦って勝ち取るものという気持ちがありました。だから何が起きても自分たちで解決するという姿勢で、その通り実行しました。
85年あたりは、2・5の革マル派による和光大生襲撃事件で、学祭ひとつやるにも文字通り“命”がかかってました。このあたりの経緯は当時関わった多くの学生がそれぞれの見解を持っているのであえて言いません。
が、ここで言いたいのは、大学当局もセクトも権力もすべて敵にまわしてなおかつ1年のハレの場である学祭を敢行したかったということです。 勤労学生の多かった当時の和光では、すべてを忘れて陶酔できる1年に1回のハレの場でした。
当時から「今年は学祭あるのかな」という声が毎年のようにありました。 正直言って、多くの学生が望まないならなくてもいい、という気持ちでやっていたのです。継続性なんか関係ありません。
やりたいからやる、それだけでした。
部室さえ、自分たちで拾ってきた廃材で作り、大学から盗電していたくらい、当局とは対立していましたから。
もし、盛り上がりがないのならやめてしまってもいいと思いますよ。 自然発生的にやりたいという声が出るまでやめてしまってもいいのではないですか。
当時学内のあちこちに書かれていた言葉
「自力更正」
この精神を忘れないでください。
ちなみに当時の和光の出身者は、この言葉のせいかどうか、タフというかしぶとく社会で生きています。私もその一人です。
では。