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和光大学祭!?

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和光大学祭についてテッテ的に話せる掲示板
学祭関連の話題なら何でもオッケー
(その他の和光大学関連の話題は和光大学‐裏‐伝言板でどうぞ)


まつなが 基本的な情報の提供を求めてみたり 1999年10月01日(金)11時40分09秒

 学祭会議に参加してる人なら当然、学内を歩いてる人ならそこそこ知ってるのかもしれないけど、そもそも今年の和光大学の大学祭はいつ開催されるのでしょうか
 そのような情報が外部に向けてちっともアナウンスされてない(ように見える)というのは一体どういうこっちゃ、と思うところなきにしもあらず。

 学祭の成功というのを考えるなら“お客さんがたくさん来てくれる”というのは一つの有力な尺度で、そのためには日程の周知なんてのはまず最低限というかおよそオープンなイベントをやるなら絶対欠かせない必須の広報情報であって、そういうのが当事者の人たちから出てきてないというのはどうかと思います。学祭機構に広報部門というのはないのかしら。あるんだったら、いったいどんな広報の仕事をしてるのかな。DMとか出してるのかな。
 郵便出したり情報誌に載せたりするよりも、ネット告知がいちばん速いし労力も費用もかからないし(言うほうも聞くほうも)、そもそも興味持った人がアクセスしてくるんだから宣伝効果抜群だし、掲示板ならメールアドレス持ってなくても双方向性があるし、使ったら使っただけトクなメディアだと思うんだけどなあ。ぜひ使ってください。
 僕はこないだ聞いて日程は知ってるんだけど、ネットにおいて二次情報と一次情報というのはまったくもって価値が異なるものなので、ぜひ一次情報の提供をお願いします。味もそっけもない簡単な事実報告だけでもかなり意味があります。

 ついでに、一次情報を持ってるのは誰かというおせっかいな話をすると、学祭会議に参加してる人なら全員そうであるはずです。なんとなく“役つき”の人でないとこういうところに書いちゃいけないように思えるかもしれないけど、そういう根拠はないと思うんですけど。あるの?
 学祭会議出ててここも読んでる人がいたら(というかいるんだろうけど)、ちょっと手間かけて書いてみませんか。

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まつなが 掲示板の方向性/OB−在学生という権力関係 1999年09月30日(木)10時42分37秒

●この掲示板の方向性

 掲示板のライブ性というかダイナミズムというか、そのようなものは信じませんか。
(……)しかし、この掲示板では、そもそも「戦略的メディア」として使われる節もないし、単にOBが昔の学祭を懐かしがって、無責任なことを言い散らしているだけにすぎないように思われる。つまり、本来なら公共性の高い議題であるのに、それを私的な関心に基づいて、さらにその関心を前提とした私的空間である掲示板上で議論を行うように、あらかじめ方向づけられているところに問題がある。
 掲示板の「方向づけ」の問題については、これがインターネット上の掲示板であるという事実によって回避できると思っています。

 そもそもかねだくんがここのことを、上記引用のような方向づけのなされた掲示板として定義づけたとしても、この掲示板がそのような方向づけを持った掲示板であるということには論理的に結びつかないし、インターネット上の掲示板は、設置者の心づもりよりは、利用者の読み書きによって性格づけられていくものです。だからここは今、まつなが(≒管理人)の発言と、かねだくんの発言ばっかり並んでて、なんだかとっても私的な空間に見えるかもしれないけど、現実に人が見に来てる以上、公共的で戦略的なメディアとしての使用可能性が閉ざされているわけではありません。使ってね。
 裏‐伝言板だって昔はこんなにみんなに認知された場所じゃなくて、今みられるような公共性は掲示板の利用者が育ててきたものです。ここも裏ホームページにリンクを作ってもらえたので(感謝)、ヤフーからのリンクの階層としては裏‐伝言板と等価だし、掲示板一般の特徴として、公共性が高く図書館から誰でもアクセス可能であり、文字によって議論もできる。

 管理人が僕(松永)なので私的なバイアスは修正できない、とか思う人は、そう思ってもらっててかまいません(この見解に対する論理的反証は不可能だし)。ただ、“管理人としての権力の恣意的な発動”が掲示板をゴミのようにつまんなくする要因であることは知ってるし、僕は面白い掲示板が好きなのでそのようなことは避けるつもりです。

 というわけでいろいろ書いてね。ルールによると「学祭に関連している気がする話題なら何でもオッケー」です。もちろん誰が書いてもオッケーです。


●OB−在学生という権力関係

 OB−在学生という権力関係に依存し依拠し則った議論かー。すごく繰り返して書かれてますが、そうですね。無自覚というか、学祭に関してなされた発言については、OB−在学生という関係で言えば、実際に学祭をやる在学生の判断のほうが強い、というのが前提というか合意事項のようなものとしてあると思っていました。(判断としては例えば「面倒くさいことを考えて、何やら茶々を入れるOBがいるなぁ」とか「ケッまたジジィが来て勝手なこと言ってやがったぜ」とか。)このことは、学祭について勝手なことを言いたがる無責任かつ権力的なOBに都合のいい思い込み、とは言えない程度には共有されている前提だとは思いませんか。僕は思います。
 そして、実際の会話の場で話された会話が“ぜひ採用すべき提案であるとの強要”とか“OBからのプラン変更の指示”などというものにはなっていなかったと信じているので、その会話を「バカ話」と書きました。
 それにしても“OB−在学生”というのは確かに用心したほうがいい権力関係ですね。気をつけます。

 かねだくんの言ってる根拠って“たとえばもし、その場にいた在学生の人が出てきて「OB−在学生という権力関係に依存し依拠し則った提案ではなかった」と言っても解除されない”ように見えるんですけど、それで合ってますか。


 こういう会話が遠慮なくできているということにおいて、すでにして「この掲示板作ってよかったなあ」などと思っています。

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かねだ 「バカ話」を「提案」と見なす根拠について 1999年09月29日(水)18時49分26秒

僕が「バカ話」を「提案」と見なす根拠は以下の通り。

◎前述の通り、それが「バカ話」だとしたら、学祭に関わる不特定多数の人間がいるサー連事務局まで出かけていって話をする必要は全然ない。学祭に関わる話を、学祭機構もしくはサー連のOBとしてすることによって、在学生に対し無言の圧力となっていることは否定できない。そして、この権力関係に無自覚なままで「バカ話」と称してしまうことには反対だし、むしろ権力関係を考慮に入れるのであれば、それは「バカ話」ではなく、「提案」として考えられることだ。

自らが所属する立場性や、依存する権力関係に無自覚なまま議論を行っても、まったく意味はない。しかも、学祭に対して自ら企画参加をして責任のとれるようにする、などして深くコミットメントすることなく、学祭について無責任に(しかしOBー在学生という権力関係には依存したまま)言いたいことを言うという態度には怒りすら感じる。

「学祭会議」についても言いたいことがある、って、言ってどうするの?何らかの形で企画参加をして、防備隊や近隣対策の手間も引き受けた上で、学祭のシステムについて文句を言うってんなら分かるけど、「OBという権力」に依拠したままで、しかもそれを武器としながら、自らの主張したいことをただ主張するという態度には、あきれかえるほかない。

「自己決定」とか「自己責任」とか言う一方で、自らの「自己責任」について問わない、というのは、はっきり矛盾でしかない。「自己責任」とか言うんだったら、まず自分が学祭に対して責任の取れる立場に基づいてモノを言いなよ。そのことを、「OBー在学生」の権力関係に乗っ取ってなんとかする、というのは単純に言って間違ってるよ。

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かねだ 去年の議論の意味づけ 1999年09月29日(水)17時37分53秒

 「去年の議論の意味づけ」ということで言えば、僕としては、裏ー掲示板における議論はかなり戦略的に行ったものでした。そもそも大学で24時間学祭を遂行するための運動を行っていたし、僕にとって「裏ー掲示板」とは、いわば戦略的メディアだったわけです。
 掲示板一般の特徴として、公共性が高く図書館から誰でもアクセス可能であり、文字によって議論もできる、ということがあるわけで、「学祭」のようなことを俎上に乗せるにあたって、これほど適したメディアはありませんでした。もちろんその一方で、立て看板を創ったり、学祭会議で議論を行っていたりもした。そしてその延長線上に掲示板も存在した。だからこそ、大学当局が発表した情報も載せたし、掲示板を通じて学祭会議に学生が動員できるのならば、学祭会議の日時・場所も載せた。
 そのように戦略的メディアとして掲示板を考えた場合、掲示板は手段でしかないのだから、目的(24時間学祭の遂行)へ到達するためには、たとえ納得いかない議論であっても、それが運動の目的からして些末な議論であったのならば、それに集中すべきではない、ということを常に心がけていた。
 この意味で、松永さんの持っている「去年の議論の意味づけ」と僕のそれとでは、大きなズレが感じられる。

 このような認識の差異というものがあって、ここから僕は松永さんの「バカ話」を、正しく「提案」として受け取った。松永さんが「バカ話」を自称しようが、それはその当為の事柄そのものを表しているのではない。それは僕からみれば「提案」と呼ぶべき行為であるし、そのほかの人から見ればまた違うように見えるであろう。自らが「バカ話」として定義づけたとしても、それが、その当為の事柄が「バカ話」であるということには論理的に結びつかない(いわゆる「事実判断から価値判断は導き出せない」という命題)。向笠さん風に言えば、「バカ話」あるいは「提案」という評価それ自体は問題ではなく、その当為の形式が問題であるということになる。

 去年上記のような意味合いで掲示板を利用していた人間からすれば、この掲示板の存在意義自体、かなり必然性の薄いものだと感じざるを得ない。この掲示板は「戦略的メディア」でもなければ、それとして活用される節も見られない。
 そして、やはりこの掲示板の問題点は、既にして掲示板上の議論の前提として、松永さん風に言えば「バカ話」が前提となってしまっていることにある。それは冒頭の僕の文章の転載から始まって、それに対する松永さんの返答に明確に見てとることができる。
 去年の「裏ー掲示板」の面白さは、もともとある程度公的な場所であったところに、さらに公共性の高い議題を設定したことにあり、そこに現れた様々な反応にあった。しかし、この掲示板では、そもそも「戦略的メディア」として使われる節もないし、単にOBが昔の学祭を懐かしがって、無責任なことを言い散らしているだけにすぎないように思われる。つまり、本来なら公共性の高い議題であるのに、それを私的な関心に基づいて、さらにその関心を前提とした私的空間である掲示板上で議論を行うように、あらかじめ方向づけられているところに問題がある。

 それに「バカ話」で済むんだったら、いちいちサー連まで出かけていって話すことでもないじゃない?誰かと電話やメールで話せば済むことでしょ?それをサー連や学祭機構でするってことに、非常に不穏なものを感じるし、それを「バカ話」として済まそうとするのはすごく気持ちの悪いことだと思う。
 松永さんは「バカ話」と思ったのだとしても、「OBからの圧力」と感じる現役生だっているだろうよ。そんなことに想像力が及ばないで、「バカ話」で済ませちゃう感覚ってのは受け容れられないな。

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まつなが≒管理人 参考:引用符について 1999年09月28日(火)21時13分48秒

>引用符号に半角の「>」を使うと、タグの一部と判断されがちなので
>全角の「>」のほうが安全です。

▼(引用開始)
こういう引用符号もあります。これだと元の文章を再整形せず投稿できるので、特にこの掲示板のような自動折返しの場合には便利かもしれません。
▲(引用終了)
<BLOCKQUOTE>
このタグは引用文を括るためのものです。多くのWWWブラウザでは、前後余白+字下げされた段落として表現されます。
</BLOCKQUOTE>
(長いタグはかな漢字変換の辞書に登録しておくと便利です。)

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まつなが 説明することと去年の議論 1999年09月28日(火)13時52分52秒

かねだ=Dくん、どうも。おそくなりました。
「委曲を尽くして」とか言うけど、去年なんかの場合は、まったく「委曲を尽くして」いたとは思えないし、その意味でアカウンタビリティーがとにかく低かった議論になってしまったという印象が強い。この点に、松永さん自身が反省を向けていないのだとしたら(そして、去年の議論をもって「委曲を尽くしていた」と判断しているのだとしたら)、それは大きな問題だと思う。

 去年やってた“説明”は確かに、“説明の必要な相手であると認識した相手に対する説明”にはなってなかった。
 一連のことについて実はひそかに反省していたりはして、ハンパしちゃってごめん、などと思っていたのですが(思ってるだけだと秘密でしかない)、ちょっと振り返ってみます。

●去年の議論
 アカウンタビリティーが低かった(説明責任の果たし具合が悪かった)というけど、そもそも“学祭会議参加者=学祭当事者”に対して“学祭会議の説明”をしてる俺って誰!? という矛盾というかー、去年もアレでしょ、最初から「全会一致・徹底討論」で進めてたわけでしょ。えーと、根本的には、そのルールで参加してる人たちのはずなのに、全然了解されてないじゃん! という矛盾の話であった。“会議の進行に不満を持っているが、その不満を実際的に解決するには何の努力もしてない(と俺なんかには思える)人たちの不満”というのが掲示板に出てきたので、不満の出どころはルールが全然了解されてないことにある(あなたはルールを了解しているはずなのだ)と説明しようとしてうまくいかなかった、ということだと思っています。

 去年の議論と学祭会議との関係を言えば、了解された前提で動いているはずの会議の参加者から、明らさまに前提を了解してない“素朴な意見”が出てきた。素朴な意見というのは「会議が長げー、終わんねー」という状況に対する不満ね。
 しかしその“不満”は会議の場に出てこないかぎり学祭の運営を左右する“意見”にはならない。そして学祭運営管理の事実上の実体である“事務方”(とでも呼ぶことにする)の意識は、同じ状況を前にしても“不満”よりは“問題解決”に向かい、実際事務方が馬力かけて働けば学祭はとにかく開催できるという部分は相当ある(あった)。結果的には、会議に出てきた他の意見からの流れによって、そうはいかなくなったけど。
 ようするに、議論というのは学祭会議に出た意見に対するものではなく、裏‐伝言板に漏らされた不満に対するものであって、「現場で説明することもできたし、学際会議で発言し説得することもできた」という実際性とはそもそも少し離れてたように記憶しています。

 そして学祭会議というのは実は“みんなでよ〜く考えたんだから我々の一致した意見は正しい”という無謬性を前提した議決を行ってる場であって、決定事項に対するフェイル・セーフ機能を持たない。それだからして“学祭会議の前提を了解していない学祭会議参加者の感想”というのは学祭会議の外で取り扱うしかなかったのではないか、とも思います。
(僕は現行の学祭会議のシステムはだいぶ疲弊してる、もしくは時代遅れだと思っていて、このことについてはまたあとで書きます。)


●て、提案!?
 「提案」「提案」というけど、これはそもそもは「学祭ネタ」の「バカ話」であって(ちゃんとそう書いてある)、“書類に書いて学祭機構に出す提案”とかなんかじゃまだ全然ないんだけど、それはわかってますか。
 しかし表に持ち出して同日即刻全員了解適用可能な実際的提案(それは奇跡という)ではなくても、いくばくかのホントは含んだ話だと思ってるんだけど。「学祭」という言葉に対するイメージの混乱がもたらす「祭」運営のマイナス要素とか。
 学祭には御輿だとか大きな柱だとかのわかりやすい象徴はないけど、それでも以前は何か学祭なりのコミュニティじみたもの(自分たちが学祭をやること)への求心力がもっと強かった印象があるんだけど、とか。

とりあえずこんなところでどうですか。説明不足ならまた書きます。

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かねだ 「自己責任」について2 1999年09月27日(月)06時48分34秒

 例えば、松永さんが去年麻雀有理さんにやったような「説明」の仕方では、結局何も説明していないし、「説得」にもなっていないわけですよ。あの議論の中で、麻雀有理さんは、松永さんにおよそ糾弾されるかのような感じで追い詰められていったのだけれど、そのような行為は、結局「面倒くさいことを考えて、何やら茶々を入れるOBがいるなぁ」くらいの印象しか相手には与えていない。

 もちろん僕だって説得に成功したわけではないけれども、それでも去年のあの議論というものは、ちゃんと振り返って、当事者双方ともに見つめなおす必要があると思うし、そのような反省をしないで、「十分な説明」というようなことを言ったとしても何のリアリティも無い。

「委曲を尽くして」とか言うけど、去年なんかの場合は、まったく「委曲を尽くして」いたとは思えないし、その意味でアカウンタビリティーがとにかく低かった議論になってしまったという印象が強い。この点に、松永さん自身が反省を向けていないのだとしたら(そして、去年の議論をもって「委曲を尽くしていた」と判断しているのだとしたら)、それは大きな問題だと思う。

 それから、僕はその当時学部生で、現場で説明することもできたし、学際会議で発言し説得することもできた。それは少なくとも、僕の中には「学祭は基本的に在学生によって行われるものであって、OBはゲストに過ぎない。OBの力を借りるのだとしたら、それは単に手段としての意味合いしかないのであって、それ以外の意味はない」という気持ちがあり、そこを基盤としてやっていた部分が多い。だから、卒業した今、学祭に対して積極的に発言しようとする気にはならないし、むしろ、在学生が自ら学祭を立ち上げられるのでなければ学祭に意味はない、と思っている。

 このような前提の上で、松永さんの提案を読むと、一人の学祭機構OBとして非常に居心地の悪い印象と違和感をうける。

 まず第一の違和感として、OBという立場に対して、松永さんがどれほどの意識を持っているのかがはっきりとしない点がある。この提案を読んでいると、まるで「呼びかけ」の文章か何かのようだ。しかし、当然の態度として、OBが卒業してからノコノコと出ていって「呼びかけ」に類する提案をし、それでもって学祭を変革しようなり何なりの意図を持つ、ということは、やはり差し控えるべきであろう(「学祭は基本的に在学生によって行われるもの」「OBはゲストに過ぎない」)。
 もちろん、何らかのアドヴァイスを求められたのなら、その都度答えれば良い。OBにできるのは、所詮そんなものでしかないし、むしろそれ以外のあまりにも積極的な行動は慎んだ方がいいのではないか(「自己決定」を主張するのであれば、学祭の運営主体である学祭機構の自己決定も尊重されてしかるべきであって、基本的に企画参加団体として学祭に参加することのないOBには、学祭の運営に関して口を挟む権利がない)。

 第二の違和感として、第一点と関連して、この提案を誰に向けて提案しているのかがはっきりしない、という点がある。この提案は実際の「学祭」の改革を目指しての提案なのか、それとも、単に「議論のための議論」なのか。
 前者の立場だとすると、第一点の立場から、この提案を僕は拒否せざるを得ない。そして後者の立場だとすると、これを「和光大学祭」のみならず、より広い議論として発展させるのならともかく、「和光大学祭」という枠内のみにおいて議論するのであれば、それは「どこにも応用される可能性のない議論」である他なく、要は無意味な議論ということになる。これには僕は可能性を感じられない。

とりあえず、この二点について、松永さんがどのような見解を持っているのか、ということを知りたいです。そうでなければ、ちょっと僕は議論を進める気になれません。

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まつなが この掲示板のルール 1999年09月23日(木)16時41分38秒

●設置の趣旨とか

和光大学祭に関係した話をするための場として作りました。
学祭に関連している気がする話題なら何でもオッケーです。事実報告でも、議論しても。
(去年、和光大学‐裏‐伝言板が学祭がらみの議論で埋まってしまったため、その予防として。レポート課題とかイベント告知とかの日常の情報が埋もれるのは面白くない。逆に、議論に興味のある側からすると、そんな情報で発言を流すな、などと思うかもしれない。)
学祭会議の話、学祭会議では言えないような話、アジテーション、愚痴、口で説明するとかったるい話、他大学の情報、あるいは安いレンタル屋、有利な仕入先、その他いろいろ幅があると面白いのではないかと思います。


●ここのシステムの特徴と活用法

ちょっと変わった掲示板システムを使っていますので簡単な説明など。

 ◆最大保存発言数
事実上無制限です。ログは流れて消えたりしません。
発言が多くなって文書が重くなると、自動的に新しいファイルが作られます(そこから以前の発言も簡単に参照できます)。

 ◆新規書き込み
タイトルの下のリンクから「記事を書く」を使うと、新しい書き込みをするフォームが表示されます(ブラウザで“新しいウィンドウとして開く”のもよいでしょう)。
書き込みにはタグも使えます。
表示は自動折返しなので、あらかじめいちいち改行を入れて整形しておく必要はありません(自動折返しにしたくない場合、整形済み文書として投稿することもできる)。
投稿するとテスト表示が行われ、どのように表示されるか確認することになっています。そのまま実際に投稿することも、もう一度(何度でも)書きなおすこともできます。

よく使われているtcupとかの掲示板だと、いろんな系統の話題が混在すると、流れが追いづらくなります。しかし、ここのシステムでは、投稿順の離れた発言に対するコメントでも、元発言を簡単に読むことができます。

 ◆フレーム表示
タイトルの上の小さなリンクから「フレーム版」を使うと、フレーム分割によってスレッド表示と発言とを同時に見ることができます。

 ◆コメントの書きかた
ある発言に対する返信を書く場合、その記事の下の「この記事にコメント」を使います。

 ◆URLの埋め込み
通常のHTMLと同じように
<A HREF="リンク先URL">リンクする文字列</A>
……でハイパーリンクを設定できます。
一つの書き込みの中で複数の発言を参照したい場合などは、各発言の下の「この記事自身」という文字列に設定されているURLを埋め込むことで、その発言に対するリンクを作ることができます。いわゆるマルチレスなどの場合でも、読者に流れを把握してもらうのに役立つでしょう。

というわけで「いまこんな発言してログ流しちゃったら迷惑かな」とか思う必要はありませんので、何でもどしどし書き込んでください。

 ◆発言の削除
発言の削除は発言者の申し出により管理人が行います。メールでご連絡ください。可及的速やかに対処します。


●発言される方へ

言うまでもありませんが、発言内容については徹頭徹尾自己責任ということでお願いします。
実名匿名は好みによってご自由に。ただし名前は一貫させてください(変更した場合は明示してください)。
あとはマナーとかうるさく決めませんのでお気軽に。なんとなく合意らしきものが生まれてくるといいな、と思います。
(誹謗中傷、プライバシー侵害等の犯罪を構成する行為は、マナーとか以前の問題であり、面白くない事態を招く蓋然性がとっても高いので禁止です。為念。)

ついでですが、「学祭」は辞書登録しないと「学際」になってしまう場合が多いようです。


●管理人

松永洋介(メールウェブ
ご意見等あれば受け付けます。


ではでは、よろしくどうぞ。

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まつなが ただそれだけの自己責任 1999年09月21日(火)10時10分05秒

「自己責任」というのを掲げて人や団体を囲い込む気はないんだけど。むしろ“過保護をやめる”というのに近い。今までだって建前上は自己責任が要求されてたわけだから、その原則を生で出しただけなんだけど。

その「原則の存在を徹底させ」るのは誰がどのようにやるのかというと、はっきりいって“誰かのリスキーな行動を別な人がフォローする”ことをやめる、という形でしか表明できないと思うのね。ほかにアイディアがあれば聞きたいなあ。

“その原則を理解できる”人や団体だけが参加できる、と宣言することは、悪しきエリート主義なのかなあ。委曲を尽して説明説得してもその原則を理解しない人や団体は存在しないと思いますか。

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まつなが 名称変更の理由 1999年09月21日(火)09時33分50秒

現状、「学祭をやる」と聞いた瞬間、それぞれの人はそれぞれの“学祭”像を思い浮かべてしまうと思う。
“あらかじめ用意された学園祭”的なヌルい期待をする人もいれば、“学生の「自生的な祝福の場」”を期待する人もいるだろう。その他さまざま、それこそ人の数だけ期待があるだろう。
そして学祭が実際に行われたとき、事前の期待との落差というのが必ずあるはずだ。

事前の期待は人それぞれだ。しかし、実際の学祭とのそれぞれの落差を、お互いに話してみたり(ぶつけたり、すりあわせたり)すれば、その時その場で、なんだか特別な空間が共有されていた、そこに自分が参加していた、ということはいくらかでも了解できると思う。そんで、そういう場の出現こそが学祭の持つハレ性だと思う。
しかし一方、学祭のやっかいな特色として“全体像の把握がとっても難しい”というのがある。極端な話、サークル内の当番仕事しか見てない人なんかだと、期待(予定)と実際の“学祭”との落差を感じない可能性だってある。
予定の仕事をこなすことは、大なり小なり間違いなく必要だけど、そういう態度ばっかりだと、それぞれの“学祭”イメージは永遠に噛み合わない(相対的に位置づけられない)わけで、じゃあなんでわざわざ大勢で“学祭”とかいってやってんの、ということになる。

というわけで、いろんな価値観はあると言いつつ、学祭の「本来的」な姿は、学生の「自生的な祝福の場」だと思ってしまう者としては、“晩秋になるとなんだか学内に出現してしまう祝祭的な空間”の呼称として、いろんな固定観念が断片的にこびりついちゃった「学祭」というのはとりあえず捨てたほうがいいんじゃないかなー、と思った次第。みんなで集まって騒ぐことで何が起きるのか、予断を捨てて、もうちょっとまわりを見てほしいのだ。

つまり目的は既に与えられてしまった固定イメージの打破なので、べつに名前は「エキスポ」でなくてもかまいません。「ふにゃむにゃ」だか「うにむにゃ」(正確に思い出せない)とする案もあったぐらいだ。
「エキスポ」って今やかなり無色に思ったけど、やっぱり歴史にとらわれますか、そうですか。まあ「展覧会」じゃないのは確かなんだけど。だからって「大学まつり」とかはヤだし。何がいい?

名称変更したほうがいいかもという根拠は、大体こんなとこだと思います。どうですか。

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 「自己責任」について 1999年09月21日(火)01時21分45秒

1999/09/20 (月)
14:31

学祭で「自己責任」というのは、結局、自主的に学祭に参加することに関する責任の遂行、ということになる。要は学祭に参加する権利を得たのだから、そこに参加する以上はきちんと義務を全うする、ということ。

具体的には防備隊にちゃんと参加するとか、近隣対策隊の仕事をきっちりやる、とかいったことになる。実際、会議で決定される義務はそれほど多くないのだから、ただそれだけを全うすれば基本的にはそれで大丈夫、ということになる。

あとは、個々人がちゃんとリスクを背負った上で自由に行動する、という原則さえ守られればそれでいい。

例えば会議の場で麻雀をやってもいいけど、結果として会議が停滞して延びるということになるんだから、そのリスクは背負う、ということ。そのリスクを背負うのがイヤだったら、麻雀をやめて会議に参加し優れた意見を述べればよい。ただそれだけのことだと思うよ。

だから問題は、「自己責任」や「自己決定」ということが出来る人を最初から囲い込んで、その人たちで学祭をやる(これは悪しきエリート主義だ!)というのではなく、むしろ原則の存在を徹底させた上で、そこから自律性が生成するのを待った方がいいんじゃないの。

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 「エキスポ」はダサい 1999年09月21日(火)01時09分34秒

1999/09/20 (月)
14:01

学祭を「エキスポ」ってのは、ちょっとダサすぎる。

「エキスポ」的なノリは、パリ万博以来伝統があると言えばあるんだろうけど、それは所詮産業化に象徴される近代社会の産物なんであって、とりあえず「脱産業社会」と言われる’70年代以降の社会状況に、「エキスポ」っていうのはいかにも馴染まない。

その本来馴染まないものを、バブルのイケイケでやってしまったのが筑波万博だし、その結果残骸として生まれたものが、多摩ニュータウンの不気味さに通じるところがある、あの「筑波学園都市」だった。

一方「祭り」というのは、民俗学でも言われるように「ハレ」の場でもあるし、それは本来的に民衆の自生的な祝福の場だった。

「祭」という言葉には、それだけで心躍るものがあるし、可能性を賭けるのであれば、むしろ「エキスポ」なんて使わない方がいい。

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まつなが 運用開始 1999年09月21日(火)00時57分55秒

というわけで運用開始です。

こないだ大学に遊びに行って、学祭についてのバカ話をして、僕がそのことをウェブに書きました

……サー連事ム局でHDなんかとバカ話。学祭ネタでは以下のような“結論”が出たりした。

  1. 「学祭」という用語は概念の混乱が著しいので廃止、事後「エキスポ」と呼称する。
  2. 参加者・団体は自己責任を全うし、手が余ったときには誰かの何かを手伝えるといいな。(何をどのように何度説明しても暖簾に腕押し、糠に釘、な方々に対するフォローは行わない。)
  3. 公的資金の投入は打ち切る。
  4. 云々。

……ああ、話してるうちは面白かったんですけど。さてさてどうなるか。


これを読んだDさんがうちの掲示板で次のような発言をしました(もとの発言時刻を示して再掲載します)。

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まつなが テストの2 1999年09月20日(月)23時23分15秒

今度は自動折返しのテスト。たとえば、こういう、改行のない、長い文章であっても、自動的に折返される。
改行したいときはふつうに改行したのがそのまま
……このように、反映される。
ただしこれは、記事の投稿の際に「改行が効くようにする」ボタンを押した場合。普通はこの設定が便利だと思う。タグも使えて、こんなふうにリンクもできる、松永のサイト

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まつなが テストの1 1999年09月20日(月)21時25分55秒

あーあー本日は晴天なり。
ただいまマイクのテスト中。

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管理者: 松永洋介 <ysk@ceres.dti.ne.jp>
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