今やラオックス“ザ・コン館”のロゴに面影を残すのみの『THE COMPUTER』誌(ソフトバンク)。
以下の書き出しで始まる「田原総一朗のコンピュータ・ルポ」が掲載されたのは1990年12月号。その昔のTRONへの熱気を漂わせる、ほとんど考古資料ですが、当時からのコンピュータ状況の変化とBTRONの変化のなさを思うと感慨深いものがあります。
Introduction
去る9月5日(1990年)、松下通信工業は新たな教育用コンピュータの商品化の発表を行った。製品名はPanaCAL ET。ニュース・リリースによれば、PanaCAL ETは「AV機能を充実し、小学生でも使えるやさしい操作と教材の作りやすさを基本コンセプトとし、さまざまの教育的配慮を施した、文字通り『教育用コンピュータ』としてふさわしい」マシンであるという。
業務用電子機器をターゲットとして松下電器から1958年に分離・独立した同社は、校内放送システムやランゲッジ・ラボラトリー(LL)などの納入を通じて、かねてから学校とのパイプを培ってきた。この実績を背景に、今年度から本格化しはじめた学校へのコンピュータ導入の動きに合わせて送り出されたのが、PanaCAL ETである。文部省は学習指導要領を改定し、1993年度から中学校の技術家庭科で「情報・基礎」を選択科目としてスタートさせる。文部省はこれに向けて、今年度から「教育用コンピュータ補助事業」を進めている。1990年度分の予算は50億円。購入資金は文部省から3分の1、残り3分の2は地方自治体からの補助によってまかなうとされているため、総額で150億円のパーソナルコンピュータ市場が今年度、公的補助によって誕生したことになる。文部省は1台あたりの単価を58万7000円と見積っており、台数に換算すれば約2万6000台。さらに今年度からの5年間で、文部省は総額1800億円の補助によって、約31万台のコンピュータの導入を予定している。加えて「大規模改造費」として振り分けられる資金もコンピュータの導入にあてることが許されており、これが今年度分で50億円ある。
このあらかじめ確保された市場を狙うPanaCAL ETは、松下電器産業の手になるハードとソフトのコマの組み合わせによって誕生することになった。PanaCAL ETのハードの中核は、80286(8MHz版)採用のPanacom M530である。これに教育用と名づけられたボードをプラスした構成が標準となる。
増設されるこのボードは、3つの要素によって構成されている。
第1は、教育用パソコンに望ましい条件として示された、24×24ドットで文字を表示するための漢字ROMである。Panacom M530は16×16ドットの漢字ROMしか持っておらず、24×24ドットのJIS第1水準、第2水準が増設ボードの漢字ROMによって供給される。第2は、仮名漢字変換の辞書ROMである。ここに松下電器のマシンの標準辞書となっているMKKがROM化されて組み込まれている。そして第3が、2Mバイト分のRAMである。Panacom M530は本体に1M分のRAMを備えており、これに加わる2Mで、PanaCAL ETは標準で3Mを備えて出荷されることになる。このPanaCAL ETに採用するオペレーティング・システム(OS)の選択にあたって、松下通信工業は大胆で意欲的な選択を行った。
Panacomの標準OSであり、16ビット・パーソナルコンピュータの事実上の標準となっているMS−DOSはオプションに回された。それに代わり、松下電器情報通信関西研究所が独自に開発したという「ETマスター」と名づけられたOSが標準採用されたのである。
マルチウインドウ機能を備え、ポップアップ・メニューをマウスで選択しながらの操作を基本とするこのOSは、80286の保護モードを利用してマルチタスクを実現している。さらに特筆すべきは、そのファイル管理の独自性であろう。ルートディレクトリから下位のディレクトリへと分岐しながらファイルを管理していく従来のシステムに対して、ETマスターのファイルシステムはきわめて柔軟で自由度が高い。個々のファイルは、仮身と呼ばれる一種の見出しに置き換えて表現することができる。この見出しには仮身であることを示すアイコンが添えられる。これをクリックすれば、置き換えたファイルの中身を新しいウインドウに開いて参照することができる。アウトライン・プロセッサ、アイデア・プロセッサなどと呼ばれる原稿作成支援用のアプリケーションでは、ひとかたまりの文章を見出しで表現し、中身を閉じたり開いたりしながら全体の構成を吟味する環境が提供されている。仮身によってファイルを表現し、開いたり閉じたりする感覚はこれに近い。
ETマスターでは、見出しにあたる仮身に対し、ファイルの中身を実身と呼ぶ。 さらに1つのファイルに対して、ユーザーは複数の仮身をもうけることができる。実身には文章や図形に加えて、複数の仮身が組み込める。これによってそれぞれのファイルを仮身に置き換えて他のファイルの任意の場所に組み込み、それぞれを自由に関連づけることが可能となっている。この実身/仮身型のネットワーク構造のファイル管理システムがOSレベルで提供されているため、異なったアプリケーションで作ったファイルも自由に関連づけられる。アップルコンピュータのMacintoshが大衆化させた視覚的な操作環境は、パーソナルコンピュータ、ワークステーションを貫く主流となりはじめている。ETマスターのユーザー・インターフェースも、この大きな流れにそっている。だがMacintoshに親しんだユーザーも、このOSが実現したネットワーク型のファイル構造には新鮮な驚きを感じるだろう。さらに、異なったアプリケーションで開いた複数のウインドウ間で、クリップボードを介することなく直接ファイルを移動する作法も軽快である。
ETマスターにはさらに文章エディタ(シーケンシャルに並んでいるファイルを操作するという意味で1次元エディタとも呼ばれる)と図形エディタ(2次元エディタ)が内蔵されている。 このPanaCAL ETを、松下通信工業は4つのバリエーションで販売する。教師と生徒のマシンの画面をアナログ映像で繋ぎ、ヘッドセットによる通話を可能にするAVコミュニケーションをプラスした上で、すべてのマシンをLANで接続したフルシステムを組んだ場合、マシン21台の構成でオプション、工事費をのぞいた価格は3500万円。AVコミュニケーションのみ、あるいはLANのみのシステム設定も可能である。さらにPanaCAL ET1台のみの販売も行われる。1台の定価は、M530の価格44万5000円(20Mバイトのハードディスクつき)に加えて、教育用ボードが20万円で計64万5000円。バージョン1.3、リリース1.3と表記されたETマスターが4万8000円、別売りのエディタが4万円、ユーティリティーが2万円。総計で、75万3000円である。松下通信工業は個人からの購入の求めにも系列の販売会社を通じて応じるとしており、教育用ボードを省くことなどで、かなりの値引きが可能になる。そして現実にPanaCAL ETに触れたものは、このOSが紛れもなく独自の魅力を備えていることを確信するだろう。あらためて、このマシンが8MHzの80286というかなり貧弱なエンジンで動いていることを思い起こせば、これだけの手厚い環境が目の前で軽快に動いていることにも驚かされるに違いない。
ユーザーがこのマシンに出会って感じる疑問点は、おそらく1つ。
立ち上がりの画面や、印象的な手の形をしたポインタを見れば一目であきらかである。確かにキーボードは、教育専用キーの追加されたJISタイプがついている。
だがこのOSは間違いなく、BTRONである。
TRONプロジェクトの提唱者である坂村健・東大助教授の著作はたくさんの読者を獲得し、BTRONのインターフェースとは多くの人が紙の上で出会ってきた。そのBTRONが、PanaCAL ET上で、現実に動いているのである。OSのETマスターは1.2Mバイトのフロッピーディスクの容量のほぼ全体を占めているが、1枚に収まってはいる。マルチタスクで駆動させることを考えれば3Mバイト程度のRAMは欲しいとしても、2Mあれば教育用ボードなしでも立ち上がる。さらにPanacom Mシリーズやこれと互換性をもつ富士通FMRの80286マシンでも、走らないと考えるほうがむしろおかしい。ラップトップで実験してみれば、たちまちBTRONのラップトップ機が誕生するはずである。
このことに気づいた者の唯一の疑問は、なぜこのマシンがBTRONを表立って名乗らないかであろう。多くのユーザーに夢を与えてきたBTRONは、現実のマシンとして姿を表しているのではないか。ではなぜ、夢が現実に変わったことが、表立って宣言されずにいるのか。
この謎をぶつけるべき相手は、坂村健その人をおいてほかにはあるまい。
この後、坂村先生へのインタビューなどが続きます。読みたい方は図書館か古本屋で探してください。
学校でPanaCAL ET使ってた人、いませんか。使い勝手はどうでしたか。