1999年8月21日
信濃教育会について調べてたら、以下の記事を教えてもらうことができました。出典は、信濃毎日新聞社開発局出版部編『長野県百科事典―補訂版―』(信濃毎日新聞社、昭和49年1月20日第1版、昭和56年3月10日補訂版)。
信濃教育会
社団法人で、長野県下21教育会の連合体。教育者の職能団体で、教育尊重の振起につとめてきた。創立は1886(明治19)年で、前身は長野教育談会(1884)、改称長野教育会で、全県組織に改めて信濃教育会となった。その後、しだいに会員の増加をみ、1900(明治33)年には16郡全部に部会をおいた。当初から月例集会を開いて会員の活発な演説討論を行い、雑誌『信濃教育』を刊行し、毎年、総集会、諸講習会を開き、教育に関する研究、調査を行ってきた。児童、生徒のための教科書、学習帳の編集はもとより、地域社会の歴史、自然、文化などの調査研究を試み、その成果を本にまとめ刊行を続けてきている。おもなものには、文部省検定『習字』(1889)、第二次大戦終結までの『理科学習帳』、戦後の文部省検定『理科教科書』『国語教科書』『家庭科教科書』がある。このほか1913(大正2)年から1936(昭和11)年にかけて、『象山全集』『一茶叢書』『天山全集』『長谷川昭道全集』などが出版された。なお、第二次大戦終結の前後、信濃教育会出版部を併設し、自ら印刷、出版の仕事を始め、社団法人信濃教育会出版部と、信濃教育会印刷株式会社となった。1907(明治40)年、付属の『信濃図書館』を開設し、のちの県立図書館の基礎を築き、1911年には、信濃育英会、さらに海外協会の設立を促した。1947(昭和22)年には、教育研究所を付設した。1951年、世界教育者団体総連合(WCOTP)に日本最初の会員として加盟し、年々代表を送って、国際会議に参加したり、海外に教育視察員を送ったりしている。第二次大戦の翼賛政治体制下、国の要請によって、1944年、大日本教育会長野県支部となったが、会の運営は会員教育者の掌中にとどめ、戦後再び信濃教育会に復帰した。また、教職員組合の結成によって、全国の教育会が、ほとんど解散したにもかかわらず、本会は存続し、全国的にみても活発な活動をしている。〈太田美明〉
なるほど、その昔はブイブイいわしてたようですね。しかし、なぜか“最近のこと”というのはあんまり書いてありません。
これを見ていきなり断定しますが、きっと当人たちの意識は、この当時からそんなに変ってない。
25年経てば人はだいたい歳をとりますが、当人たちというのは一般的に、外から見たほどには歳をとった自覚がない。うっかりすると当人たちの把握してる“現状”すらも昔のまんまだったりするかもしれない。自然、若い人たちからは疎まれやすくなる。
そして教育関係の人というのがあんまり“引退”とかをしたがらないとすると、教育関係団体の構成員の平均年齢は比較的上がりがちだろうと思う。
ところで長野県には事実として「高校現役生の大学進学率が低い」という現状がある。その“教育低下”の原因を県内の元気な教育関係の年寄り連中のせいにするのは、それはもうとっても簡単なことだろう。今回みたいに信濃教育会があげつらわれる理由としてはそのような傾向もあるらしい(県内情報)。
たしかに「信濃教育会が指導力を持ちすぎ」ているという状況の醸成には、その指導力を結果的に温存してる“みんな”の存在が欠かせない。そうやって年寄りに文句たれてばっかりないで何か改善策を、という考えは当然もう既にその“みんな”の中から出てきているものとは思いますが、どうなんでしょうね。
いろいろ調べてたら、信濃教育会のサイトも発見しました(先に見つけた出版部のサイトにリンクが見つからないので存在しないのかと思ってた。灯台下暗し)。見るとなかなか充実したサイトです。情報教育についても「無線RUN」なんか導入してがんばってるみたいです。走るんですかね。
こうやって部外者が何かゴチャゴチャ言ってますが、アンケートの設問が面白かったんで興味持っただけです。当事者の人は教育県信州の復活めざしてそれぞれがんばってください。もし高校現役生の大学進学率が高くなっても「指導力を持ちすぎ」なんてことは誰も言ってくれないとは思いますが。
松永洋介 mtng_ysk@nifty.com