『漫画原論』レジュメの叩き台

1995/6/14(水) 言語文化関係講読7「若者文化の磁場」

7月5日発表分のレジュメの叩き台

『漫画原論』
22章 文体について(1)/23章 文体について(2)

91L520 松永洋介


■四方田犬彦の言っていること■

[22章]

●“文体”という概念の提出

〈一人の漫画家が作品を執筆するにあたって採用する、ある一定の線の調子。テクストの肌ざわり。特 徴的な誇張法。省略、暗示、隠喩、倒置、反復といった文彩(フィギュール)の個性的な選択のあり方。要するに彼の漫画を読み進んでゆくうちにアロマのようにたち昇ってくる、ある独特の雰囲気の形。そうしたものの一切を今とりあえず言語学に倣って文体と名付けてみたい〉(187頁)

 →非常にとらえにくいことを言おうとしていて、論じ方はまだはっきりしない。


●〈文体は、誰が見てもそこに明らかに現前しているにもかかわらず、これまで漫画評論がまるで示し合わせたかのように沈黙を守ってきた要素であった。〉(187頁)

●手塚治虫の『落盤』(1959)では意図的に5通りの文体が使い別けられている。それぞれの場面では、それぞれの文体に似つかわしい物語描写が行われている(ポンチ絵のような画面では記号的で類型的な、劇画に近い画面ではシリアスでハードな語りが展開される)。

〈『落盤』ではこうして意図的に五通りの文体が採用されている。最初のものはひどく単純で様式化されており、漫画が極度に省略された線と多様な記号で作りあげられたスラプスティックスな表現であるという当時の一般的社会通念にみごとに対応している。最後のものでは絵の調子も語られる内容もおそろしく違っていて、複雑な人間心理の屈折が十分に明暗法(キアスキュロス)を強調したコマのモンタージュを通して描写されることになる。〉(192〜193頁)

〈aからeまでの文体は、それぞれに対応する世界観を体現している。〉(193頁)


●文体によっては語れない題材もある。

〈手塚は従来彼が自家薬籠中のものとしていた漫画の文体ではこうした悪の問題を表象することができないという事実を、敏感に察知していた。〉(193頁)


●〈文体は個人の自由な選択であるように見えて、つまるところジャンルの文法と深い相関関係を保っている。ある文体の選択はある特定の世界観の選択と同義であり、漫画家は以後その文体に拘束されることになる。〉(194頁)

 →というこれは一般論で、そうでない例があとで出てくる。


[23章]

●文体の選択にはジャンルとの関わり以外にも数多くの要因がある。

〈ひとつの文体が選択されるには数多くの要因が働いていて〉(195頁)


●文体は作者の独創性の証明ではない。

〈文体が作者の独創性の証明であるといった無邪気な信仰が根拠のないものであることが判明してくる。〉(195頁)

 →「文体こそが」と言うならともかく、“文体”がまったく独創性を伴っていないとは考えにくい。


●これまでは、アシスタントの使用による文体への影響さえあまり論じられていない。

〈いかなるアシスタントを採用するかという問題は、文体の等質性を考えるときにつねに論じられてしかるべきことであるが、量産をもってよしとなす商業漫画の世界ではそれほど真剣に検討されてきたわけではなかった。〉(196頁)

 →作家側の意識としては、分業制のプロダクションによる作品であることを積極的に表明するさいとう・たかを(『ゴルゴ13』ビッグコミック連載中)や、アシスタントの名前を併記する江川達也(『東京大学物語』週刊ビッグコミックスピリッツ連載中)などの例はある。


●漫画の世界には、公然たる模倣・剽窃・借用・引用がつねにあった。

〈現実に漫画界に身を置いてみると、ありとあらゆる場所で登場人物やプロットの借用にはじまって、文体、絵柄に至るまで、好き勝手な引用が公然と行われていることがわかる。〉(196頁)
〈ある漫画の登場人物なり画風文体などが評判を呼ぶと、たちどころにその模倣者が雨後の筍のように出現し、それが平然と公認されてしまう〉(196頁)

 →たとえば“大友調”の絵のマンガとか、いしいひさいちや植田まさしに似た絵の4コママンガなどは山ほどあり、それらのオリジナル作品の“オリジナリティだったもの”は一種の“公共の財産”と化している。(こういう一般化の過程は、音楽の世界だとわりあいにうまく比較ができそうだ。)
 現在、週刊少年ジャンプに『密(ひそか)リターンズ』というマンガが連載されているが、最近『めぞん一刻』からのかなり大胆な引用(?)が見られる。超有名マンガ誌の連載作品でもこういうことがあるのである。


●漫画の文体は本来的に匿名性を帯びている。

〈「コミケット」にもちこまれる何百、何千という同人誌のカタログを眺めていると、漫画の登場人物を形造る文体なるものが本来的に匿名性を帯びていることが判明する。〉(197頁)
〈独創的な文体をもつことは、ここではいささかも重要視されていない。〉(198頁)
〈コミケットにおいて一挙に祝祭的な形で露呈されてしまうのは、漫画が本質的に抱いてきた匿名性に他ならない。〉(198頁)

 →「漫画の登場人物を形造る文体」に「本来的に匿名性」があるのではなく、“まねやすい(まねたくなる)絵もある”というだけの話ではないのか。同人誌に描かれやすいマンガがあるのは、カラオケで歌われやすい歌があるのと同レベルの話だと思う。コミケットカタログからマンガの本質的特性が読みとれるというのは、カラオケボックスで歌謡曲の本質が察知できるというのと同じような不確かさを含んでいる。コミケは、カラオケ同様の、いわば“参加型の消費”の場でもあり、著者はそこを抜き出しているにすぎない。
 独創的な“文体”が「いささかも重要視されていない」というのは言いすぎである。他ジャンルの様子、あるいは全参加サークルにおける比率を考えればこの程度のことは言いたくなるのかもしれないが、コミケに集まる人が全員こういう姿勢であるわけではない。
 匿名性とかを言うなら、マンガでなくとも、たとえば、さまざまな出版社から刊行されている新書の推理小説や冒険小説やシミュレーションノベルでも事態は同じではないのか。一時期大量に出回っていた“謎本”と言われるジャンルの本では作者名すら定かでない。あるいは日々量産されているテレビ番組だとどうだろう。ファミコンとかのビデオゲームでも、レコードでもいいが、「素人眼には判別がつかないほどに酷似している」(197頁)のは、商業作品を真似たマンガに限った話ではないのではないか。


●〈漫画作品が他に追随を許さない独創的な文体を抱いていなければならないという観念をめぐる批判意識は、漫画界において少なからぬ優れたパロディ作品を産み出す機掛となった。〉(198頁)

●〈パロディ化はいうなれば、漫画が漫画として存続するために属性として携えていなければならない作業であるともいえる。〉(200頁)

●〈漫画家が特定の文体に帰属せず、気儘に複数の文体の間を往復するとき、その作品は物語を一義的に語る以上に、漫画というジャンル自体をめぐる、よりメタレヴェルの批評といった色彩を帯びる。〉(200頁)

●〈固定された文体、個人の独創が作り出した文体という「芸術的観念」からはるかに遠い地点に立って描き続けることで、みなもと太郎はまったく独自の視座を歴史に対してもつに至った。それはとりもなおさず、漫画というジャンルが無意識的に抱いている非個人性、匿名性への要求の発現に他ならない。〉(201頁)


■“文体”を意識したマンガの例■

●とり・みき『とり・みきのキネコミカ』(ソニー・マガジンズ、1992)

 →特に「スター・ウォーズ」「ゴーストバスターズ」「ロボコップ」は、それぞれ杉浦茂・水木しげる・前谷惟光へのオマージュとして、それぞれの作家の“文体”の特徴を実にうまく拾い出して再構成している。たんなる模倣ではなく、独特のペンタッチ(極細のサインペンを使っている)や、おなじみのキャラクターが出ていることで、とり・みきのマンガであることも濃厚にわかる。


●藤子不二雄「劇画・オバQ」(1980頃? 藤子・F・不二雄『異色短編集1』小学館、1989)

 →劇画調の絵で描かれる、十数年が経過した『オバケのQ太郎』の世界。かつての仲間は皆大人になり、周辺には宅地開発の波が押し寄せ、正太が忍者ごっこをしていてQ太郎のタマゴを見つけた雑木林はゴルフ練習場になっている。ひさびさに人間界へやってきたQ太郎は、結婚して独立した正太の家を訪ねる。ある晩、ゴジラの家に全員で集まって酒を呑み、昔話から話は盛り上がるのだが……。

[以上]

松永洋介 ysk@ceres.dti.ne.jp