『漫画原論』23章レジュメ

1995/9/27(水) 言語文化関係講読7「若者文化の磁場」

『漫画原論』23章 文体について(2)

91L520 松永洋介


■四方田犬彦の言っていること■

●文体の選択にはジャンルとの関わり以外にも数多くの要因がある。

〈ひとつの文体が選択されるには数多くの要因が働いていて〉(195頁)


●文体は作者の独創性の証明ではない。

〈文体が作者の独創性の証明であるといった無邪気な信仰が根拠のないものであることが判明してくる。〉(195頁)

 →“文体”がまったく独創性を伴っていないとは考えにくいのだが……。


●これまでは、アシスタントの使用による文体への影響さえあまり論じられていない。

〈いかなるアシスタントを採用するかという問題は、文体の等質性を考えるときにつねに論じられてしかるべきことであるが、量産をもってよしとなす商業漫画の世界ではそれほど真剣に検討されてきたわけではなかった。〉(196頁)

 →作家側の意識としては、分業制のプロダクションによる作品であることを積極的に表明するさいとう・たかを(『ゴルゴ13』)は特例としても、アシスタントの名前を併記する例は江川達也(『東京大学物語』)や山口貴由(『覚悟のススメ』)など、探せばかなりの数いそうである。また、はっきりそうと判明しているものは少ないが、文体(というか画風)の統一のために、アニメ映画のように設定画を基にアシスタントが作画をする例もある(麻宮騎亜など)。


●漫画の世界には、公然たる模倣・剽窃・借用・引用がつねにあった。

〈現実に漫画界に身を置いてみると、ありとあらゆる場所で登場人物やプロットの借用にはじまって、文体、絵柄に至るまで、好き勝手な引用が公然と行われていることがわかる。〉
〈ある漫画の登場人物なり画風文体などが話題を呼ぶと、たちどころにその模倣者が雨後の筍のように出現し、それが平然と公認されてしまう〉(196頁)

 →たとえば“大友調”の絵のマンガとか、いしいひさいちや植田まさしに似た絵の4コママンガなどは山ほどあり、それらのオリジナル作品の“オリジナリティだったもの”は一種の“公共の財産”と化している。〈ここに今日の大量消費社会に量としてまず実在してしまった、漫画の特殊性を求めることは間違いではない〉(196頁)というが、こういう一般化(独創的な作品に端を発するジャンル形成?)の過程は、音楽の世界だとわりあいにうまく比較ができるかもしれない。


●漫画の文体は本来的に匿名性を帯びている。

〈「コミケット」にもちこまれる何百、何千という同人誌のカタログを眺めていると、漫画の登場人物を形造る文体なるものが本来的に匿名性を帯びていることが判明する。〉(197頁)
〈独創的な文体をもつことは、ここではいささかも重要視されていない。〉(198頁)
〈コミケットにおいて一挙に祝祭的な形で露呈されてしまうのは、漫画が本質的に抱いてきた匿名性に他ならない。〉(198頁)

 →「漫画の登場人物を形造る文体」に「本来的に匿名性」があるのではなく、“まねやすい(まねたくなる)絵もある”というだけの話ではないのか。コミケットカタログに似顔絵が並ぶには〈カルト的な熱狂に包まれる〉(198頁)必要があるわけだし。同人誌に描かれやすいマンガがあるのは、カラオケで歌われやすい歌があるのと同レベルの話かもしれない。コミケット≒カラオケボックスとすると、コミケは、カラオケ同様の、いわば“参加型の消費”の場でもあるわけで、コミケに集う人の嗜好に合った素材というのが漫画全般の特性を示しているとは言えないと思う。また、コミケ全体を考えれば、独創的な文体が「いささかも重要視されていない」というのは言いすぎである。さらに言えば、ファミコンでもレコードでも、「素人眼には判別がつかないほどに酷似している」(197頁)のは、商業作品を真似たマンガに限った話ではない。


●〈漫画作品が他に追随を許さない独創的な文体を抱いていなければならないという観念をめぐる批判意識は、漫画界において少なからぬ優れたパロディ作品を産み出す機掛となった。〉(198頁)

●〈パロディ化はいうなれば、漫画が漫画として存続するために属性として携えていなければならない作業であるともいえる。〉(200頁)

●漫画の「文体」には、強力な批評性を持ちうる可能性が含まれている。

 ここが四方田犬彦が言いたかったことのキモ。

〈漫画家が特定の文体に帰属せず、気儘に複数の文体の間を往復するとき、その作品は物語を一義的に語る以上に、漫画というジャンル自体をめぐる、よりメタレヴェルの批評といった色彩を帯びる。〉(200頁)

 →阿見さんと二人で延々考えていて、どうやら、この「漫画というジャンル自体をめぐる」の読みが問題らしい、ということを発見した。ここだけ読むと、文体を行き来することで漫画は自己批評性を持つことができる、という感じに思えたのだが、このあとは〈みなもと太郎の漫画は基本的にこうした複数の文体を積極的に取り入れることで、漫画の画面全体を永遠の異化効果の場にすることを主眼としている。〉〈固定された文体、個人の独創が作り出した文体という「芸術的観念」からはるかに遠い地点に立って描き続けることで、みなもと太郎はまったく独自の視座を歴史に対してもつに至った。それはとりもなおさず、漫画というジャンルが無意識的に抱いている非個人性、匿名性への要求の発現に他ならない。〉(201頁)とかで、漫画ジャンルへの批評性の話は出てこない。ようするに「ジャンル自体をめぐる」というのは、“漫画のジャンルを縦横に駆ける”とか“漫画の可能性を生かした”ということなのである。
 つまり、漫画の文体の違いがもたらす、いわば語りの立場の違いというのは、物語へのさまざまな読みの可能性を広げるものであり、それこそが漫画が根本的に持つ、硬直した視点の破壊作用とでも呼ぶべきもので、それを非個人性、匿名性と呼んでいるのである。

[以上]

松永洋介 ysk@ceres.dti.ne.jp