91L520 松永洋介
三省堂『新明解国語辞典』第4版の「合体」の項の(二)に
「性交」の、この辞書でのえんきょく表現。
という記述がある。
新明解というと、どこか独特の態度を持った、見ていて気になる記述の見受けられることの多い個性的な辞典だが、それにしてもこの記述はインパクトがある。
婉曲表現というのは同書によれば「表現が・直接的(露骨)でなく、遠回しな様子」である。しかし「『性交』の、この辞書でのえんきょく表現」と書いたこれはあまりに直截な、身も蓋もない表現である。この辞書では確かに「合体」という語を、どうも特殊な使い方をしているかな、と思わせる部分があり、それは婉曲表現だろうが、こちらの説明にはこうはっきり書いてあるとなると、どうも姿勢に一貫性がなく、婉曲表現を用いる必然性がないように思えてくる。
そもそも国語辞典の意味記述に婉曲表現を持ち込むこと自体、どうかと思われる。なぜここで婉曲表現なるものが顔を見せているのか。不適切だとすれば、どうあればよかったのか。ということで、この「えんきょく表現」から発した言葉をめぐって国語辞典を考えてみた。なお、使用したのは以下の国語辞典である。
『新明解4』 | ……『新明解国語辞典』第4版 |
『広辞苑4』 | ……『広辞苑』第4版 |
『大辞林』 | ……『大辞林』第1版 |
『岩国4』 | ……『岩波国語辞典』第4版 |
『三国4』 | ……『三省堂国語辞典』第4版 |
まず「婉曲」そのものを、他の辞書でも引いてみた。
続けて「遠まわし」を、『新明解4』も含めて見てみる。
それとなくではあるが、一応わかるようには言っているようだ。婉曲の反対の表現も見てみる。
『広辞苑4』の(1)は『大辞林』のように語源として扱ってもいいのではないか。
露骨すぎると言葉にうるおいが少なくなるのである。
新明解では、その婉曲に表現されるべき「性交」の項には
せいこう【性交】成熟した男女が時を置いて合体する本能的行為。
とある。他の辞書では
『広辞苑4』:男女の性的な交わり。交接。媾合。房事。
『大辞林』:男女が性的交わりをすること。交接。交合。房事。セックス。
『岩国4』:男女が性器を交える行動。
『三国4』:性的なまじわり(をすること)。
となっている。
『岩国4』のように「男女が性器を交える」のが「性交」かと言われれば、これは違うと思う。「性的な交わり」ならいいが。
『新明解4』には「本能的」とあるが、本能的でないのもあるだろうし、書かないほうがいいのではないか。同じ新明解で「食事」を見ると、「おなかがすくに従って、主食と副食物とを組み合わせて食べること。また、その食べ物。」とあり、これも「本能的」ではないが余分なことが書いてある。『大辞林』だと「生命を維持する栄養をとるため、一日に何度か物を食べること。また、その食べ物。選択され、調理・加工されたものを食べ、時に儀礼を伴うなど文化的な面が強く、動物の採餌(さいじ)とは異なる。」となる。
一方、婉曲表現に用いられた「合体」は
やはり新明解は良くも悪くも突出してユニークである。理念などといったことだけでなく、(「性交」以外の)物理的・具体的なモノの合体も含めて書いてほしかった。
新明解でこの「合体」を性交の婉曲表現として使っている例を3つ掲げる。
「オルガズム〔orgasm の文字読み〕〔合体時における〕性的興奮(の極点)。オルガスムス。」
「セックス〔sex〕性。〔広義では、性欲・合体を指す〕」
「れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したい、という気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。『―結婚・―関係』」
適当に当たった結果見つけた記述だが、まだあるかもしれない。(フロッピーやCD−ROMに収められた機械可読なテキストがあれば楽かもしれないが、しかし、ここでは見出し語でなく意味記述に含まれる「合体」という文字列を探しているので難しいか。)
婉曲でないと不都合があったから「合体」が出てきたのだろう。しかし、いまどき、どういったときにこんな表現が用いられるのか。『新明解4』のほかで「合体」がこういう使いかたで出てくるものといって、私が思い当たるのは『釣りバカ日誌』しかないが、これは「辞書と比較してどうするんだ」という性質のものなので捨て置く。
考えてみれば「合体」はかなりミもフタもない言葉でもある。少なくとも、あまり情味があるとは思えない、露骨な言葉だ。行為の見た目そのままの部分だけをわりあい強く描写していて、含むものが少なく感じる。編纂者は「性交」と(または「セックス」他の言葉で)書くよりも適当だと感じて「合体」を選んだのだろうが、しかし、これは婉曲などでは全然ないようにも見える。
橋本治の『ぼくらのSEX』(集英社)に「いやらしい言葉」という章があり、次のような文がある。
「SEXのことを説明する言葉は、人にあんまりいやらしいことを感じさせないようにと思って、ふだんあんまり使ってないような言葉を使う。この本では『SEX』と、わざわざ英語を使っているだろう? 日本語で言えば『マンコ』や『チンコ』になるのを、わざわざ『ヴァギナ』とか『ペニス』と言っている。『ヴァギナ』『ペニス』は何語かというと、これがラテン語なんだね。(中略)
なんだってSEXを語るのにラテン語という特別な言葉を使うのかというと、それはどうやら「オシャレだから」ではない。自分たちのふだんの言葉でSEXのことを語ってしまうと、どうしても『いやらしい』という感じがして恥ずかしくなってしまう。だもんだから、誰のものでもない言葉を使って、『他人ごと』にして語るんだね。」
つまり、遠回りをした表現というのは、ものごとを語る言葉を発するときに抵抗が伴ってしまうのを避ける役割を果しているということだ。
しかし、辞書に書いてある言葉として見て「性交」と「合体」とどっちが心理的抵抗を引き起こすかは考えるべき問題だと思う。(この場には関係ないが、ここの「オシャレ」という語はなかなか国語辞典に載っていない使われ方をしている。洗練されてカッコよくて気がきいていること、か。)
同じ本の次の章には、こんな文章もある。
「『キスをする』を、江戸時代の言葉では『口を吸う』といった。『キス』のことは、だから『口吸い』。とってもストレートな表現でしょう? いやらしいと思いますか? それとも、『すっきりしててわかりやすい』と思いますか? 『口吸い』というのは、もうそのまんまモロの言葉だから、『いやらしい』と思う人にとってはいやらしい、『すっきりしてる』と思う人にはすっきりしてる。
『SEXをする』にあたる日本語が、この『キス=口吸い』みたいに、具体的ですっきりした表現の言葉になっていさえすれば、SEXに関することが、こうもややこしくはならなかったかもしれない。だってこれは、『事実は事実』でしかない言葉で、それだからこそ、『なれればあたりまえ』になる。『はじめはちょっと抵抗があるけど、よく考えたら、これはあたりまえのことなんだ』っていうことをわからせる言葉というのは、こういうものでなくちゃいけないね。
『やること』は『やること』で、隠しようもなく具体的なんだ。具体的な行為なんだから、その具体的な行為をあらわす言葉というのは、ちゃんとあったほうがいい。そのことを、『口吸い』というストレートな言葉の存在が教えてくれているようだ。」
個人的な感触では、「口吸い」はいいが、やはり「合体」はどうも違う気がする。「ひとつになる」というよりは、別々のものがたまたまそのとき触れ合っていると見て、どちらかといえば「接触」に近いことだと思う。(だから、ここへ「時を置いて」という言葉が入ってしまえば「合体」でもいいことになる。単独使用は×)
しかしそもそも、国語辞典というレファレンスとしての出版物で、ものごとを直截に表現するのを恥ずかしがる(?)というのはやはり変だ。
国語辞典が道具としてあるものならば、その記述は、できるだけ余計な意味付けをされていない、透明なものが求められるだろう。
そういう姿勢で言葉の意味が書いてあれば、それは読んだそのままの、そういうことであり、その意味であるということだが、だからといってその言葉の使い方までわかるかどうかは、わからない。
言葉の意味がわかってもどういうシチュエーションで使えばいいのかがわからないのは困るが、ニュアンスまで含めた意味が適切に書いてあれば使い方も自ずとわかっていいはずである。「いい」や「結構」など、文脈によって全然違う意味を示す言葉もあるが、ある程度の用例が示してあれば、あとは辞書の問題ではない、としていいのではないか。
特に反語や皮肉やサベツの意図が含まれた文など、言葉を発する側と受ける側の位置関係やほんの小さなアクセントの違いなどで大方の意味が決まったりもするわけで、どんな大量の用例があっても、どう読むかは実際のところ規定できない。言葉の意味はその言葉が折り込まれた文脈から推測されて理解されるものであるのがもっとも自然な姿だと思うが、だから「言葉を使うときは文脈に注意しましょう」としか言えないかもしれない。辞書としては、その言葉がどう使われうるかという可能性を、過去の例で示すだけである。
「ある程度の用例」というのがどの程度かというのは個々に検討すべきだが、現在、辞書をめくっていて、用例を示しておきながらその文の意味が書かれていないものが大半、というのはおかしな話だと思う。そう書かれたときにどんな意味が出てくるかが鍵なのに。
(ところで「ひとを小馬鹿にしたような」などというものは、いったいどんな要因でそう感じられるものなのだろう。先天的にあるのか、学習されるものなのか。ときどき「犬に馬鹿にされた」などという話もあるが、どうしてそう感じるのだろう。)
婉曲表現が自然に成立しているなら、その言葉に含まれている意味がその文脈に乗ってうまく抽出されているということだろう。それはそういう流れでしか出てこないニュアンスであろうから、それに「暗に示している意味はこれこれ」という注釈をつけるのは、コクゴの試験問題の「いま主人公はどんな気持ちでいるか。最も近いものを選べ」という問題を見るのと同じような脱力感を誘われるものにも思える。しかし「こう書いてあるだけでは意味のわからない人がいるかもしれない」というのが前提である「辞書」の中なのだから、ミもフタもなく書いてあって当然である。そうあらねばならない。
結局はミもフタもなく書くのだから、最初から婉曲表現など使わないほうがいい。たとえ「そうとしか表現できない」微妙なニュアンスであっても、とにかく明晰に明解に説明してしまうのが辞書の役割であろう。そういう意味で、新明解に出てきた婉曲表現というのは辞書としての自己矛盾を抱えている。しかし同時に〈この辞書でのえんきょく表現〉というので既に自ら婉曲表現を選ぶ意図を破綻させてもいるわけで、この辞書を作った人がこの問題についてどういうつもりでいるのかはよくわからない。