門坂流 新作版画頒布会「流の会」

そこに流れる宇宙があった

――門坂流新作版画頒布会「流の会」発足までの経緯

2002年3月1日

寮 美千子


門坂流との遭遇

 門坂流の版画に出会ったのは、二十世紀も後わずかという日のこと、青山のギャラリーハウスMAYAという画廊だった。東逸子と門坂流という、芸大出身のふたりの二人展でのことだ。一目で見渡せてしまうほどの広さの画廊の右半分には東逸子の、左半分には門坂流の作品が展示されていた。
 もともと東逸子の銅版画のファンであるわたしは、彼女の作品を堪能し、もう一人の未知の作家の作品も見ることにした。
 門坂流は、すでにイラストの世界で長いこと活躍している作家だったが、わたしはそれまで寡聞にして知らなかった。今思えば、絵を見たことはあるものの、名前とは結びつかなかったのだ。展覧会の会場に行った時点では、門坂流とむすびつく絵は、個展の案内状に印刷された絵だけだった。二分割された葉書の片側に印刷された砂漠。ひどく繊細な線で描かれた風紋。砂と小石の他には何もない。
 どういう人だろうか、と思った。葉書の絵から想像されるのは、背の高い細面の神経質な青年。東逸子の絵のイメージに引っ張られ、わたしは勝手にそんなイメージを抱いていた。

一瞬にして門坂流世界へ

 その未知の作家の版画の前に、はじめて立った時感じた不思議な感情を、どう表現したらいいだろう。繊細な線。線がつくる無数の渦。そのなかに立ちあがる形象。水であったり、雲であったり、荒涼とした雪渓であったりするその絵を次から次へと見ていって、水晶の結晶を描いた銅版画の前に立ったとき、その名づけられない感情は、名づけられないまま決定的なものになった。
 いまにして思えば、それは、十五の夏に宮沢賢治の作品に出会った時と、驚くほど似ていたかもしれない。一目で、すでに決定的な何かを感じている。けれども、それが何だかわからない。わからないままに、心惹かれてしまう。
 やがて時間をかけ、少しずつ知っていくのだ。自分がなぜそんなにも惹かれたのかを。
 その理由を知ったとき、自分の最初の直感が驚くほど正しく、深いところまで到達していたことを知って、再び驚きを禁じえない。

線描から広がる無限の生命感

 その驚きを、言葉にしようとしてできないことはない。けれど、どんなに言葉を連ねても、心に湧きあがる名づけえぬ強い感情には遠く及ばない。しかし、あえて言葉にすれば、こんなふうにいえるだろう。
 その繊細にして細密な線の緊張感に惹かれた。その線が渦巻いて出現させるたぎるような、それでいて無機質な、不思議な生命感に惹かれた。躍動感溢れる生命のざわめきを感じさせながらも、どこまでも静謐で透明な世界がそこにあったのだ。
 線と線が交叉しない、という不思議な手法で、その絵は描かれていた。交叉しない線は、必然として無数の渦となり、流れになる。その渦と流れのなかに、形象が立ちあがってくる。樹木が、岩が、輪郭という境界線なしに立ちあがってくるのだ。
 その不思議さは、水晶の絵を見たときに決定的になった。渦巻き流れるような線で、水や雲を描くのならわかる。それらは、自然の曲線を持ったものだから。
 ところが、水晶は違う。きっかりとした直線。はっきりと神の意志のように引かれた結晶の稜線。門坂流の絵の中では、そんな直線が、そこにまっすぐな線を描くことなく、流れる曲線だけで、はっきりと直線として描かれているのだ。
 そして、それこそが、わたしがいままでずっと、水晶に見てきたものだった。石や砂に感じてきた生命が、そこにあった。ヒマラヤの山で見た一片の雲母、崩れる氷河の欠片に感じたものが、そこに絵という言葉になってあった。

水晶の稜線

 結局、わたしはその水晶の版画を手に入れることにした。見ず知らずの、はじめて見た作家の作品を買うなどというのは、生まれてはじめてのことだった。
 買いたいと申し出ると、画廊の店主がわたしを作家に紹介してくれた。画廊の片隅で、やけに機嫌よく酒を飲んでいる、ドボルザークにそっくりの中年の男性が門坂流その人だった。背も高くないし、長い指もしていない。(後で、門坂流の青年時代の写真を見せられ、その美少年ぶりに驚くことになるのだが、それはずっと先の話だ)
 けれど、その人を見て、わたしはうれしくなってしまった。なぜか、心の深いところから、笑みが繰り返し繰り返し湧きあがってくるような幸福感に満たされた。
 この緊張感に満ちた、それでいて、人に無用の緊張を強いない、繊細にして大胆な絵は、この人から生まれてきたのだ。なるほどと腑に落ち、この人を見た現在となっては、この人以外にこんな絵を描く人は絶対にいないだろうとも確信された。
 画廊での短い邂逅ではあったが、門坂流は実に魅力的な人間だった。

門坂流のアトリエ訪問

 その直感が間違いではなかったことを、わたしは直ぐに知ることになる。縁あって、展覧会で新たにファンになった人々十人ほどとともに、門坂流のアトリエを訪問させていただく機会があった。二十代の若い人がほとんどだったが、目の前で無造作に広げられる版画の一点一点に誰もが驚嘆の声を上げた。最初はみな、自分の手が届くものではないだろうと思い込んでいた。しかし、その価格を聞いて見る目が一変した。どれを持ち帰ろうかという真剣な眼差しになったのだ。自分自身の就職祝いに買いたいのだが、代金ははじめての給料の時でいいか、という青年もいれば、分割で求めたいという若い女性もいた。人気が一作品に集中することなく、それぞれが、いかにもその人に似合った一枚を選ぶところがまた面白かった。深い満足とともに、みんなが作品を持ち帰ることになった。「門坂さんの版画、いつでも見に来てね」というのが、その日の別れの挨拶になったのだ。
 以来、門坂流との交流が続いている。昨年のしし座流星群の夜は、町田の国際版画美術館そばの高台の空き地に七名が集合、深夜から朝の七時まで、寝袋にくるまって空を見続けるという、贅沢な時間を過ごさせてもらった。

画壇を避けてイラストレーターの道へ

 そんな中で、自然発生的に「門坂流新作版画頒布会」の話が持ちあがった。門坂流に、ぜひ新しい作品を描いてもらいたい。新しい作品を描くために頒布会を開こう、ということになったのだ。
 門坂流は、画壇にかかわるわずらわしさを嫌って、イラストレーターの道を歩んだ。雑誌や単行本、広告などのためにイラストレーションを描く仕事だ。その傍ら、自ら描きたいものを描くこともしてきた。そのなかで、門坂流は銅版画のエングレーヴィングという手法に出会うことになる。銅販を腐食させず、彫った線がそのままきっかりと出る精密な手法は、それまでペン画で表現してきた門坂流の本質を更に強化し表出するまたとない手段だった。1985年のことだ。

エングレーヴィングという厳密な手法

 独学の手探りではじめたエングレーヴィングの技術を、門坂流は他に類を見ないほど洗練させ、独特の「交叉しない線」による表現で、独自の世界を築いてきた。実際、この手法は門坂流独自のもので、諸外国の作品を見てもほとんど例を見ない。
 その制作過程を見れば一目瞭然だが、エングレーヴィングはごまかしの一切利かない冷徹な手法だ。刻みこんだ線がそのまま作品に反映される。エッチングのように、腐食という自然の力のもたらす効果に期待することが、一切できない。
 門坂流は、その厳しい手法をあえて選んだ。そして、驚くべきことに、一切の下書きなしに、いきなり銅版に彫りはじめるという方法を採用している。彫る方向に直角に刃を当てなければならないため、回転板のようなものを下に敷いて、銅版をぐるぐると回しながら彫り進む。画の上下左右が頻繁にいれかわる。それでどうやって出来上がりを想定するのか、わたしにはまったく理解できないのだが、彫り上がりが出来上がり、恐るべき緻密な細部を持ちながら、狂いのない美しい構図の絵が完成する。

純粋絵画の価格はどこで決まるのか?

 このような手法で作られた原版からプリントされるのは、一点につきわずか50点から多くても100点ほどだ。その一点が、大きさにもよるが、ほとんどが十万円以下、中には一万円台のものもあるという価格に設定されているから驚きだ。
 画壇の常識からいうと、これは破格の価格だ。最近流行の、デパートなどで開かれているリトグラフなどの頒布会などと比べてみてもらえれば、わかるだろう。桁がひとつ違うといっても過言ではない。
 どうしてそんな価格なのか? ひとつには、門坂流が画壇を嫌ってそこに属していないということがあげられる。日本では明治以降、絵は投資の対象とみなされ、マネーロンダリングにも利用されてきた。政治家の竹下登は、どの画家の絵が号いくらかを暗記していたという話なども伝え聞く。また、画壇のなかでの厳しいヒエラルキーが存在するという。門坂流には、そのような渦に飲みこまれることを極度に嫌う潔癖さがあった。それが、独自の活動をする方向に人生を導いた。

芸術家のジレンマ

 門坂流は結果として、画壇からも、その背後にある政治からも自由な場所を得たかわりに、作品の価格を吊り上げるということからも無縁となった。
 ということは、一点売れれば、数カ月はゆうゆうと制作に専念できる、といったライフスタイルとは無縁だということだ。
 画廊の主催で企画展を開いても、一般に作品はそう売れるものではないことは、美術の関係者ならだれでも知っている。展示されたすべてが一点ずつ売れたとしても、そう大きな額にはならず、画廊に売上げの半分ほどの手数料を支払わなくてはならない。画家の手許に残る額は、知れている。
 当然、生活のためにイラストの仕事を入れざるを得ない。そうなると、銅版画の制作にかける時間が削られることになる。すると、ますます銅版画で収入を得るのがむずかしくなり、勢いイラストの仕事を増やさなければならない。
 描きたいものを描きたいが、生活のためにコマーシャルの仕事をする。門坂流は、芸術家ならば誰でも陥るジレンマを抱きながら、地道に銅版画の制作を続けてきたのだ。

小さなパトロン集団としての「流の会」

 門坂流は1947年生まれ。すでに五十の坂を越えている。目が見えるうちに、手が動くうちに、もっとたくさんの作品を描いてほしい。それが、門坂流作品を愛する者の切なる願いだ。
 なんとかならないだろうか? 門坂流に、せめて一年間でも落ち着いて、銅版画の作品制作に専念してもらえないか。
 そこで思いついたのが版画頒布会計画だった。その内容については、別紙に詳細を記したので省略するが、試算してみて驚いたのは、わずか五十人という賛同者を集めるだけで、画家の一年間の最低限の生活を保障できるということだった。
 わたくし事になるが、物書きの場合、こうはいかない。出版社が採算がとれる出版部数は最低二千部。定価が千五百円とすると、印税は一冊百五十円。二千部印刷して、手にする印税は税込みで三十万円に過ぎない。つまり、毎月一冊本を書き、それを出版してもらえたとして、月々三十万円の収入というわけだ。毎月本を書けるわけでもないし、万が一書けたとしても毎月出版してもらえるわけでもないから、よほど売れている物書きでない限り、物書きが貧乏なのは当然だ。
 二千人の支援者があったとしても、こんな状態の物書きに比べ、画家なら、五十人でともかくも一年の生活は支援できるという事実は、驚きだった。二千人の顔を思い浮かべることは不可能だけれど、五十人なら、なんとかなるかもしれない。

日常に芸術を!

 考えてみればみるほど、すばらしい企画に思えてきた。芸術作品は、投資対象として、いままでお金持ちや企業に囲いこまれてきた。これは、それを庶民に開放する運動でもあるわけだ。画壇も画廊も関係なく、画家を支援する有志によって作品を流通させる。余分な中間搾取もないから、価格も適正だ。画家にとっても購入者にとっても、それは有利な条件になるだろう。その結果、人々は、本物の芸術作品をわが家に所有することができ、画家は画業に専念することができる。芸術が日常になり、日常が芸術になるのだ。
 かつては、メジチ家のような大金持ちが、画家を支援し、芸術を育ててきた。とてもメジチのようにはいかないが、それでも、この試みはそれぞれがささやかなメジチになるということかもしれない。版画を所有するだけでなく、みんなで画家を支えるのだ。

「流の会」へのお誘い

 そのような捕らぬ狸の皮算用により「門坂流新作版画頒布会 流の会」は発足した。発起人一同は、門坂流の版画をこよなく愛し、心から支援したいと願っている者である。事務や発送などの管理は、事務局長の松永洋介が責任を持って遂行する。万が一の金銭的トラブルが発生した場合は、発起人代表である寮美千子が一切の責任を引き受ける。賛同者を五十人集めることが出来なかった場合は、採算上無理があるので、残念ながら実行に及ぶことができない。その名の通り「流会」にならないようにがんばりたい。
 門坂流作品をひと目見て、心打たれるものがあった方は、ぜひ、この会に参加していただきたい。よろしくお願いします。

(文中敬称略)


(c) 流の会 2002
松永洋介 ysk@ceres.dti.ne.jp