和光大学は創立以来三年間を経過し、いま第四年目、即ち完成年度に入っている。この時点において過去三年間の経験をかえりみてその間に生じた諸問題、その間に露呈されたさまざまの欠陥、理念と現実との罪離、理念そのものについての問いかけなどを整理し、今後本学がとりくんでゆくべき課題を明らかにしておくことは極めて蚕要である。
しかしながらこのような総括はそれぞれの分野、問題領域ごとに、入念にとりくまれるべきものであり、それらは現行の本学の制度と慣行からみて、ある問題は学科会議で、ある問題は一般教育委員会で、ある問題は学部教授会で、というように、それぞれの組織で進められるべきものであり、それらが積み上げられた上で更にその総合的な総括がなされるべきものであろう。またそのプロセスにおいて学生諸君や職員の立場からの自主的総括があればそれを参考にし、また進んでその意見を求めるべきであろう。
そのような総括とそれをふまえ、この改善のための研究と討議はすでに若干の分野では始められている。むしろわれわれはこの三年間、歩みながら、歩んだあとを総括し、それに基づいて次の一歩を改めてゆくという仕方で進んで来た。また今後もそうするよりほかはないであろう。しかし、今はまさに三年間の経験の上に完成年度に入っている時であるから、この総括とそれに基づく展望とをうち出す作業を特に濃密になすべき時であると考える。学長としてはこのような総括が、各関係部局において積極的に進められることを期待している。
そのような問題別の総括がいまだ十分には進行していない段階で、学長の責任において全体的な総括を試みることは、独断と独善に陥る危険があるので、慎重を期すべきことである。しかしながら本学の創立の際新しく創立される本学の構想を立案するための委員会において委員長的役割を引きうけ、そこにおいてみずからの構想を提示し、その多くが容れられて、本学の理念、教育方針および実際の組織、運営の上に生かされることになって今日に至っているという事実とも関連させて言うならば、この際、私が認知している限りの、過去三年間の現実を省みて、私なりの総括を試みることは、私の責任でもあり、許されるべきことであると考える。ただ先にも述べたような事情の故に、以下述べることは、各関係機関の議を経、それに基づいて述べるのではなく、その大部分は学長である梅根個人の私見に属するものであり、また学長の立場での各機関及び教職員、学生諸君への提案的な意味の発言であることを了承されたい。
本学は開学に当って「和光大学の教育方針」なるものを公表した。これは草創の際に当って開学準備の時期に準備にたずさわった人たちの間で討議され、闇学直前の教員会議にはかって若干の討議を経て了承され、公表されたものであり、極めて不完全なものであることを私自身も自覚していたし、開学後正規に成立する教授会において、また入学した学生の意見をも反映させつつ、十分の研究討議を経てその深化と改善を期すべきものであると考えていたし、教員諸氏もまたそうすべきものとして、いわば暫定的な方針として了承されていたものと私は解している。
しかもこの「教青方針」は「本学は大学教育そのもののあり方についての研究の楊でありたい」とのべ、その意味でその後「実験大学」という表現も用いられてきたし、そこに項目的にのべられている少人数教育、総合研究と総合学科王義、一般教官における逓波逓増方式、ブロゼミ等の構想も「試験的に実施してゆきたい改善の諸方策並びにそれに伴う研究課題」として述べられているのである。
従ってわれわれはこのような方針に従ってこれらの試験的に実施され、開学後において研究し、改善すべき課題として提示されている諸点について逐次研究と改善をはかるべき任務をもっていたのである。
そのことが過去三年間において十分になされて来たかどうか。もらろんそれぞれの責任部局においてそのしごとは熱心にとりくまれ、かなりの改善をみていることは事実である。そのことについて私は教職員諸君に深い敬意を表したいと思っているし、また学生諸君がさまざまな機会に卒直な批判的意見を提示して来たことについてもこれを多とするものである。
しかしながらそれらの諸課題の多くは何れも新しい試みであるたけに、そして本学の財政的基盤の不十分さ、創設途上であるために教職員は就任が予定された人々の一部のみが就任して事に当るという事情、しかもこれら少人数の教員が草創期に当然処理し解決すべき多くの煩雑でいわば末梢的な問題の処理に追われるという事情などに妨げられたこともあって、十分に精力的にとりくまれて来たとは言いがたい。私自身をも含めてそのことは改めて自覚し反省すべきことであり、今後思いを新たにして精力的にとりくまなければならないと考えている。
このようにして本学は開学後三年を経た今日、多くの欠陥と研究・改善の課題を残していると言わざるを得ない。その若干について所見をのべてみたい。
今日大学そのものの理念、大学そのものの存在理由が全国的に、また世界的に問われているが、そのことにかかわって言うと、本学が最初にかかげた方針の背景にある理念は、第一回入学式の学長告辞でのべたような「自由な、研究と学習の共同体」ということであろう。告辞は和光大学の課題は「この極めて当り前な大学の理念を誠実に実現してゆくことに他ならない」と言っているが、それを実現するためには、この場合「自由な」とは実質的に、また学内制度的にどのようなことを意味するのか、また「共同体」とはどのようなものであるのか、一般に「共同体」という観念は前近代的な、封建社会的な集団を指すものとされているにもかかわらず大学を共同体と考えるのはどのような理由によるのか。それに答えるものとして「自由な共同体」という観念が提示されているのであるが、「自由な共同体」というのはそれ自体自己矛盾ではないのか、というような疑問もありうるであろう。告辞は「極めて当り前な理念」と言っているが、果して当り前な理念と言えるかどうか、そのことも改めて問わるべき問題であったろう。
そのような問題をめぐっての研究や討論は過去三年の間に十分行われたとは言いがたい。ただ本学連合教授会は今回の占拠事件とのかかわりにおいて、長時間にわたる精力的な討議の結果として二月二十四日づけの「連合教授会見解」を公表したが、その内容の主部はまさにこの「自由な研究と学習の共同体」とは何か、ということを問いつめたものであった。「見解」そのものも、その前文で言っているように、決して完全なもの不動のものであるわけではないし、共同体としての大学と施設(営造物)としての大学との関係については更に深くそして具体的に問いつめてゆくべき問題が残されていると考えるし、更に国家権力と大学との関係についても一届きびしい検討が必要であろう。
大学の理念史においては国家と教会と大学とは相互に独立な存在であるべきであるという思想が展開されて来た。私自身は、大学は現実的には国家の規制を受ける面をもっており、少なくとも施設としての大学は国家の制度的規制の外に全く独立して存在することは現実的には不可能であるし、また制度をこえて内面的に成立してゆくことが期待される共同体としての大学、またその構成員たる個々の教師や学生の思想さえも国家権力の規制にさらされる危険をはらんでいるが、しかし大学、特に私立入学は施設としても可能な限り国家権力の規制をこえた自由を確保するように努力すべきであり、いわんや内面的にはそれからの独立と、それへの批判の自由を堅持すべきであり、その理念に導かれて進むべきものであると考えている。大学が学問の創造の場であり、またその主体的な学習の場であろうとする限り、それは批判的精神を以って貫かれているべきであり、従ってその理論的な批判は、体制そのものとその行為に対しても向けられるのが当然であるからであって、そのような理論的な批判精神のないところには内向的な強味での「大学」はないと言うべきである。
われわれは和光大学において、封建社会的、親方制度的な、古い共同体観念を払拭することはもちろん、大学を知識の生産工場視し、知識のサーヴィス施設と考えて、その近代的、合理的な管理制度の確立を期する立場をこえて、管理やいわゆる自主規制をこえたところにはじめて成り立つ、内面的な、自由でしかも内に緊張をはらんだ、研究と学習の共同体の成長を期してゆくべきだと考える。しかもそれはコア・クラスにおいて、後期ゼミにおいてまた学科においてその芽生えと成長が期待されるものであって、そのような内部的共同体の形成なしには大学全体としての共同体の成長もあり得ないであろう。
われわれの大学には過去三年の間に、到るところにそのような内部的共同体への芽生えと成長のきざしが見られると私は思っている。それは単にコア・クラス、後期ゼミ、学科など、施設としての和光大学の組織を基盤として生じつつあるだけでなく、学生諸君の間の自由な組織であるクラブ、サークルにおいても生じつつあり、中にはかなり見事な、自由で開かれた共同体を作り上げつつあるクラブ、サークルもあるようである。
しかし一方には他人の思想やそれに基づく表現活動を、時として物理的な力に訴えてまで威圧し、封鎖しようとする傾向も生じている。このようなことはきびしく自制すべきであって、この自制なしには自由な共同体としての大学は育たないことを、おたがいは自覚してゆきたい。思想や理論の対立はきびしく鮮明であっても、その対立する思想や理論の争いは、同じテーブルについているという共通の自覚に立って、理論的に争われるべきであって、そうすることによってのみ、大学は成り立つはずである。
プロ・ゼミは本学の新しい試みの一つであるが、その運営にはさまざまの困難や問題点があるようである。私が四二年八月に書いて本学の教職員・学生に配布した「プロ・ゼミについて」という文書でのべたプロ・ゼミ構想はもちろん完全唯一のプロ・ゼミのあり方とは言えないけれども、おおむねプロ・ゼミのあるべき姿を示していると思っている。しかしこのようなプロ・ゼミ構想を現実化するためには、プロ・ゼミ担当教員が相互に経験と意見の交流をつみ重ね、本学の全教員がプロ・ゼミ担当者としての力量を高めてゆく必要がある。このことは過去三年間において多くの教師諸氏によってなされて来たことであると思うが、しかし必ずしも十分であったとは言い得ないのではなかろうか。学長が招集し、議長になることになっているコア・クラス担当教師(従ってプロ・ゼミ担当教師)の連絡協議会の開催回数も私自身の怠慢のために極めて少なく、その場での研究と経験交流は乏しかった。
しかし先般関かれたこの連絡協議会ではかなり基本的な問題が討議され、今後プロ・ゼミについての恒常的定期的な連絡協議機関を学部毎に設ける必要があるということ、プロ・ゼミを必修科目として、その履修を以て卒業要件の一つとすることの可否、理論的根拠について再検討する必要があることなどが確認された。そのほかこの会議では、コア・クラスとプロ・ゼミとを分離し、プロ・ゼミはコア・クラスとは別に、全教員が開講し、学生はその何れかを自由に選択するという案なども提案された。総じて「学習の自由」の原則を貫くためには学生を固定したクラスにおける授業を受けるように拘束することは好ましくない。 その意味で学生にとって選択の自由のない、しかも必修制の授業はやむを得ない理由のある場合以外は避けるべきであり、その意味でこのような提案は傾聴に価する。今後十分に検討してゆくべきである。
本学では一般教育の改善を一つの重点課題として来た。開学当初においてこの改善のための方策としてとり上げたことは、(一)いわゆる逓減逓増方式で一般教育を四年間にわたって履修するようにすること。(二)一般教育の講義内容を、高校教育のむしかえしであるといった批評にこたえるような、また一般教育の趣旨に合った魅力あるものにするよう努力することの二点であった。
右のうち(一)については三年間一応この方針の下に前期向け一般教育科目群と後期向けのそれとを区分し、前期二四単位、後期一二単位の選択履修制をとって来たが、それについては(イ)このように前期向けと後期向けとを区別する必要があるのか、(ロ)前期二四単位、後期一二単位というように拘束を与えることが果して妥当であるのかという疑問が教員の間にも学生の間にもあるようである。このこともまた「学習の自由」の原則にかかわることとして受けとめ、今後検討してゆくべき問題であると考える。私自身は理想としては、一般教育はその目的に照してみるとき、元来、その履修を学生に強制すべき性質のものではないと考えているが、現在の大学制度のもとでは一般教育三六単位の履修が卒業認定のための必須条件ときれているので、大学としてはこの規制を無視するわけにはゆかないのでこの規制の枠内でできるだけ「学習の自由」を保障する方策を講ずるよりほかはない。このことは(二)の一般教育の内容にかかわってくる問題であって、教師はこのような規制の有無にかかわらず、学生がその履修を欲するような講義を行うように努力する必要がある。これまで、その趣旨の下に、講義題目の選定と講義内容の計画においてそれぞれ改善の工夫と努力がなされ、一般教育委員会においてもそのための研究、討議が行われて来たし、その効果も現われていると考えられるが今後なお一層の改善を期すべきであらう。学生諸君もまた卒直な批判や要求を呈示されたい。
本学の専門教育は人間関係学科、文学料、芸術学科(以上人文学部)、経済学科(経済学部)の四学科に分けられているが、それぞれが、総合学科主義を建て前としている。そのことは現代の学術研究の動向にかんがみ、また四年制のアンダーグラデュエート・コースにおいてあまりにせまく細分化されたコースに学生をとじこめて、隣接分野の学問には全く眼をとじさせ専門職人的教育を行っている現状への批判として構想されたものである。この構想のもとに各学科ではそれにそうようなカリキュラムが工夫されて来ているが、現在のところなおいろいろの問題点を残していると考えられる。
特に人間関係学科は日本では全く新しい試みであるだけに、これまでの熱心な研先と努力にもかかわらずなお検討すべき重要な問題が残されているようである。そもそも人間関係学科とはどのような学問の研究と学習を志向しているのかという根本問題そのものが、なお今後にわたって問い続けられ、問いつめられてゆかなければならない課題であろう。それがアメリカ流のヒューマン・リレーションズの研究や同じアメリカ流の単なる行動科学であるべきでないことは当初から考えられていたことであるが、それでは何であるべきか、ということについては十分な確認にはなお達してはいない状況のようである。多くの講義が並んでおり、それらが一応いくつかのグループに仕分けされ、学生は自主的に、日己の学習プランを立てるように仕組まれている点は「学習の自由」の原則に忠実な仕組みであると言うべきであるが、それらを貫いている基本的な研究課題は何であろうか。私自身は、それは現代社会における人間疎外現象の哲学的な研究であると規定していいのではないかと考えているがどうであろうか。「人間」の学としての人間科学が現代社会においてとり上げるべき基本的研究課題はまさにこの問題ではなかろうか。
人間関係学科以外の各学科にも、それぞれカリキュラム上の問題がなお残されているのであろう。基本的な問題としては、大学は職業的技術的な教育にどれほどのウェイトをかけるべきかという問題が、共通に存在するように思われる。
本学が開学当初において構想したカリキュラム及びその後若干の修正を経て本年度実施しようとしているそれは、職業技術的ないし技能的科目をかなりの程度に含んでいる。だが、高度のそして卒業後すぐ役立つ職業技能教育を受けることを大学入学の主要な目的としている学生諸君があるとすると、その諸君にとっては本学のカリキュラムはその面で弱く、不十分であるだろう。
しかしながら大学の大学たる所以はむしろそのような職業技能教育にあるのではなく、人文・社会・自然に関する基本的、理論的な問題を職業的関心を超えた姿勢で追求するところにあり、俗な言葉で言えは、それだけでは飯のたねになりがたいことを研究し学ぶところにあるのではないだろうか。
もちろん職業教育的なもの、技能的なものを全面的に排除することは非現実的であり、避けるべきであるがそれをあまりに重視するならば、大学は各種学校と何等異なるところのない存在となるであろう。現にわが国には職業技能教育を目的とした各種学校がほとんどそのままの性格で大学に「昇格」したものもあるが、そのような大学は、大学の理念に反するものと言うべきであろう。
本学はこの辺のことを改めて討議し、確認して、それをカリキュラムの上に具体化する必要があろう。役に立ち、飯の種になる職業教育を無視はしないが、しかしたとえ飯の種にはならなくても、研究し、学びたいと欲し、また一つの使命観に立ってそうすべきだと信ずることを研究し学ぶことこそが、大学の中核的部分であるべきであろう。
本学では開学以来一般外国語は英・独・仏・及び中国語の四種類のうち英語を共通必修とし、他の三外国語中の一つを選択必修として来たが、種々検討の結果本年度から共通必修制をやめて、一外国語のみを選択必修として課し、あとは自由選択として何れの外国語でも自由に学んでもいいし、また学ばなくてもいいこととした。それと同時に外国語の種類を大幅に増加し、英・独・仏・中国のほかに、ロシア語、イタリア語、朝鮮語、スペイン語を加えることとした。また外国語の履習を前期ニ年間で打ち切ってしまう一般の慣行にとらわれず、四ヵ年を通じて履修しうるようにし、若干の外国語には後期向けのアドヴァンスド・コースを開講することとした。私はこの新しいシステムが今後学生諸君によって活用され、効果的な外国語履修が展開されることを期待している。
元来、外国語の学習は特に大学段階においては、自己が専門的に研究しようとする研究分野の専門的な研究にとって不可欠であるという必要感に支えられて、その自覚の下に自発的に学習されるべきものであり、従って原則的には必修制をとるべき性質のものではないと私は考えているし、またむしろ後期に入って自己の専攻分野がはっきりして来た段階で学習するのが自然であるとさえ思っている。ただ現在では国の制度上、大学卒業生の要件として少なくとも一外国語は必修となっているので、それに従わざるを得ないし、その必修部分は学生諸君がみずから選んで入学している専門学科の性格に即して、初年次から履修を始めるのが適当であろう。また、自由選択にゆだねられている外国語は前述の趣旨によってむしろ二年次以降において自己の必要感の熟成に応じて選択履修をはじめるのが適当であろうという考えに立って一応のカリキュラムが組まれている。
この本年度からの一般外国語教育の新プランも本年度以降の実施経験によって修正してゆくべきものであり外国語の種類もあるいは更に追加すべきであるかも知れない。しかし大学における外国語教育はさきの職業技能教育の場合と同様に、単に職業技能としての実用価値のみによって支えられるべきものではなく、基本的には学生が専攻する研究内容との関係において、そのために必要な外国文献の読解能力を得ることを主たる目的として履修されるべきのものであらう。単なる職業的技能としての外国語はむしろそのための各種学校などで学ぶべきだし、その方がその目的にとって効果的であろう。
本学の一般体育は開学当初から高い理念をうち出し、意欲的にとりくまれて来ており、すでに体育学会などで注目をひいているようである。
これまでのべてきたような、学生の学習権の保障、学習の自由の原則の貫徹という原則から言えば、大学において体育を卒業要件たる必修科目として課することには問題があるが、この点もまた国の制度の拘束を受けざるを得ない。しかしながらこれを必修として課する以上、それは大学で課するに価する内容をそして魅力を持ったものであるべきであり、必修なるが故にいやいやながら履修するというような姿勢に学生を追いこむようなことにならないようにすべきだが、日本の多くの大学の一般体育はそのようなところに落ちこんでいるように思われる。
これに反して本学の一般体育は少くともその理念においては高邁であり、実践においても、コア・クラス制の活用、男女共学制、などの新機軸をうち出している。
ただ過去三年間は創立当初であり、緊急な重点的施設の建設を急いだため、体育方面の施設は体育館以外はほとんど放置状態になっていた。その後プールがようやく完成し、グラウンドも今夏中には完成を見る予定である。これらの施設の一応の整備と相まって本学の一般体育が、一層内容の豊かな、大学の体育科目にふさわしいものとして、更に前進することが期待される。
本学では開学以来「国語補正」の名の下に、国語表現能力の指導を主とする必修国語を初学年において課してきた。これは全く新しい試みであるが、その担当者の努力に上って相当の効果をあげてきたと考えられる。今日の大学は一般に国語表現力が著しく低下しているといわれているが、それにはさまざまの原因があると考えられるし、一方では劣っていると見えることが実は新しい、国語表現への模索を意味するかも知れない側面もある。だがそのような新しい表現形態の創造をも含めて国語を大切にし、国語による正しく、効果的な表現の能力を身につけることは、知識人にとって必須のことがらである。その意味で本学の学生諸君が、この科目を十分に活用されることを望むものである。
しかしながら、さきにのべたような、学習の自由、選択の自由の原則に立つならば、この科目もまた、学生の自発的な選択にゆだねるべきであり、それを履修しようと欲する者はいつでも履修できるようにすべきではないか、という考え方がありうる。私自身は今はむしろこの考え方に傾いている。学習の機会はできるだけ保障するが、学習の強制は極力避けるという原則を貫くためにはそうすべきであろう。そうすることが結果において必修として強制した場合に比べて、国語表現能力の低い卒業生を出すことになるとしても、「学習の自由」の原則を貫くことの方がより重要ではないかと私は考えている。教員・学生諸君の意見をききたい。
(昭和四四年四月一七日 和光大学の教職員・学生に配布)