昭和四三年度の学長告辞

大学を知性回復の場に

はじめに

 今日の日本の青年諸君については世上いろいろな批評や感想が述べられております。単に大学に入っているいわゆる大学生の諸君だけでなしに、日本の青年諸君全般についてさまざまの感想や批評が述べられているように思います。その中で私は特に知性の回復という問題について諸君に若干訴えてみたいという気持を持っているわけであります。そのことは言いかえれば今日の青年諸君が次第に知性的な世界から遠ざかって行こうとしているのではなかろうかということになろうかと思うのであります。大学は何よりもまず諸君が知性的な人間になっていくための場所であると私は考えております。そのことを諸君もまた私どもと一緒に考えてほしいということであります。

 諸君は小学校から高等学校まで十二年間の学校教育を受けてきましたが、その教育はさまざまの事情の故に私どもが教育において最も大切なことがらであると考えている青少年の知性の開発をおろそかにして、ただ雑多で大量の知識のつめこみばかりを受けて来たと言っても過言でありません。

 諸君は知性的に自ら考え、自ら思索していく可能性をみんな持っておる筈です。その可能性を開発することの努力よりも、いわば量的な知識を貯め込むことだけが諸君の学習の主要な目的、あるいは内容にたっているというような教育を長年受けてきたように思われます。

哲学を学ぶことから哲学することへ

 諸君はいま大学に入って、この知識の注入から脱却して自己の知性の開発を志すべきであります。大量の知識は持っているが知性は麻痺しているという状況から脱却してゆくべきであります。知性を回復すべきであります。カントの言葉として伝えられている言葉を使えば哲学を学ぶことから哲学することを学ぶことへ転換すべきであります。

 その知性の回復はまず自己自身に向けられるべきでありましょう。諸君は大学に入った機会に改めて知性の光を自己自身に向け、自己を見つめ、自己を反省し、自己を探求すべきでありましょう。

 諸君の中にはこれまでもそのような省察を試みて来た人がありましょう。真剣にわれ如何に生きるべきかを考え抜いて来た人もありましょう。しかし多くの諸君は型通りの勉強に追いまわされて、深く自己を見つめる余裕のないままに過ぎて来た人も多いのではないでしょうか。

 大学というところは青年諸君が、何よりもまず自己を深く省察し、自己の生き方について思索を深める時と場所であると私は考えております。そのために自由に本を読み、自由に友だちと、そして教師と語り合うべき場であります。諸君は幸いに労働から解放されて、思索の時間を十分に持っている。それは諸君が幸いにして享有している一種の特権であります。その特権を諸君はまず自己を深く省察し、自己を確立するために用いるべきであります。

 しかし、自己を省察し、自己を確立するということは社会について、世界について深く考えるということを抜きにしては不可能でありましょう。特に今日の時代は世界的に激動の時代であり、危機的な時代であります。そのような時代、そのような社会の中でどう生きるかということはそのような時代と社会を正しく認識するという思考なしには不可能であります。当然のこととしてこのような時代はいったい本質的に何んであるのか、このような時代において人間はどう生きていったらいいのかというような問題を深く考えめぐらせてみるべきであろうと思うわけであります。それが知性人として大学生活を過ごしていく青年諸君に課されておる大きな役割であろうと思います。従って私が諸君に期待したい第二の点は、そのような認識を深めるための思索に諸君の時間を用いてほしいということです。

ユニークな自己の創造を

 今日の若いゼネレーションの諸君はこの時代の激動にもまれて、極端な二つの極に分捜しつつあるように私には思われます。一方の極には社会の動きにつき動かされて感性的、衝動的にはげしい焦燥感の下に、深い思考を欠いた行動に走っている諸君があります。およそ知識人として、理性的存在として生きようとしている人とは考えられないような衝動的な行動によってエネルギーの燃焼感を満足させているかに見える諸君があります。ところが他力の極には全く無節操で社会の問題にも無関心で、ただ与えられた自由を感性的ないって見ればパンチとスリルの利いた享楽に、刹那的なエネルギーの燃焼と陶酔とを求めている諸君があるように思われます。この両極の諸君に見られる共通点は、深い自己省察、広く科学的で冷静な思考を欠いた、感性主義的な生活態度、ロゴスの喪失といったものでありましょう。

 私は諸君が、単に、感性的・衝動的な人間でなしに、理性的な、人間になるための修行を、この大学で十分に積んでくれることを期待したいのです。理性を欠き、深い思索を欠いた衝動的行動からは、自己にも社会にも積極的にプラスになるものは生まれて来ません。大学は理性の府であり、理性的であろうとする人たちの共同体であること、諸君はそのような共同体の一員に今日から加わったのであることを深く自覚してほしいと思うのです。

 理性的であるということは自主的であるということであります。

 今日の青年諸君に見られる一つの傾向は、大衆社会といわれますような社会の中に青年諸君もまた埋没し、あるいは集団的な生活の中に投入して行き、そして何か自主性を喪失しつつあるのではなかろうかということであります。今日の若い人たちの欠点は衝動的であるということの結果でもありましょうが、自分一人で考え、自分の意見や主張を持たず、また自分の独自な、個性的なものを創造する意欲を欠いていることにあるように思われます。思想も趣味も、服装もすべて自由な時代であるというのに、誰もかれもみんな同じようなことを考え、同じような流行にとびつき、同じような服装をし、同じような歌を歌っている。みんなと一しょでなければ考えることも行動することもできない。同一思想、同一行動、流行と宣伝への全面的な降伏、ステロタイプ化した行動様式。そんな現象が社会を支配し青年を支配しているように見えるのです。誰もかれもマス的な人間になって行こうとしているように見える。

 集団生活はだいじでありますが、そうした中で諸君に期待したいことは、ユニークな自己の創造ということです。独りで考え、独りで行動し、独りで歩くことです。仲間と共に考え、仲間と共に行動することはもちろん大切でありますが、それが実り多き思考と行動になるためには、その反面に一人で深く考え、一人で行動することが必要なのです。大学生生活は自由な仲間との交際と共同思考が一つの大きな魅力であり、そのような仲間で、一し上に成長してゆくために、私は諸君がサークルその他の仲間活動に積極的に参加することを大いに奨励したいのでありますが、それと共に、そのこととのかかわりにおいて、特にこの「独り」を強調したいのです。それが私の第三の期待であります。

何にでも食いさがれ

 第四に私が諸君に期待したいことは食わずぎらいをやめてほしいということであります。諸君の中には、全く食べたことのない食物、あるいはある機会にちょっとなめてみてまずかったといった印象の故に、それはきらいだときめてしまって、折角出されても箸をつけない人がありましょう。それが食わず嫌いです。これは食物の上のことでありますが研究や学習の世界にもそれがあろうかと思います。諸君の中には中学校高等学校でいろんな学科を教えられて、あの学科はきらい、あの学科は面白くないと決めてしまっている人がありましょう。しかし、それは実はうわべばかりを一寸なめて見た上での皮相的な好き嫌いだと言っていいはずです。ほんとうに何が好きであるかは、食物と同じで、もっとよくかみしめて見ないと分らないものです。大学には非常にたくさんの講義があり、つまり非常にバラエティに富んだメニューが用意されており、諸君はそれによっていろいろの方面の学問に触れる機会を持つわけですし、中には専攻の種類によって諸君に必須として課されるものもあります。それらについて諸君は高等学校時代に培われた皮相なすき嫌いに支配されることなく、とびこみ、とりついて、まずそうだと思っても、それに精力的にとりくんでみることです。そうした後に初めてすき嫌いを決定するというような姿勢そういう姿勢が諸君には必要であるのではないかと思うわけであります。そういう姿勢をもって何でも食べてみるという行動の中でこそ最初に申しました自己発見も可能であります。そうするなら、諸君はおそらく意外なところに、諸君が生涯をかけるに価する世界があることを発見するでしょう。大学生時代は一面において、何にでもがめつく、食いさがってみるべき時代だと思うのです。

 そのことによって諸君はやがて、たった一つのことを子供の頃から仕込まれて、それだけが世界だと思いこみ、それだけに生きてゆくという昔の芸人や職人の徒弟とはちがって、それぞれにかみしめてその味を知っている広い世界の中から、自己の歩むべき道をえらびだし、広さと深さを待った人間に育ってゆくことができるでしょう。

 諸君は一応いろいろな事情で本学が用意しております四つの学科に入っておりますが途中での転科を私どもは認めております。なんでも食べてみているうちに希望や方向が変わってくるということは青年期においてはあり得ることであり、むしろあるべきことであります。そういう意味で一定の条件のもとにおいてではありますけれども転科を認めております。同時にそれぞれの学科の内部も本学の場合にはいわゆる総合学科制ということを考えておりまして、いろいろな方向へ進んで行けるようになっております。そのことのためには諸君がやはりいろいろなものを十分に味わってみて、それから自己発見の手づるを求めるという姿勢、積極的な姿勢を持っておることが望ましいと思われるわけであります。

 一方で本学は最初から専門の教育をすることになっております。専門の世界に深く入って行くことが最初から出来るようになっておりますが、そのことは、やはり、まず自分の希望する専門について深くかみしめてみると同時に、本学ではそういう専門の分野だけに限らないで広くいろいろなことを学び、いろいろな先生方に接触する可能注があるわけですからそのような世界を、俗な言葉で言えば食べ歩きをすることによって、その一つ一つのことを十分に味わってみることによって自分の希望が変わるならば変わるで結構であります。やはり最初の希望に間違いがなかったというならばそれでも結構であります。どうか自分を固定的に考えないで、自分の将来には自分の知らない可能性が備っておるということを頭の中においてこの大学を自己発見の場にしてほしいと思うわけであります。

 教師に対しても食わずぎらいをしないで食い下ってみることです。一寸見た眼の印象だけであの教師の講義は面白くないとか、あの教師はおっかなそうだとか判断しないで、飛びこんでみることです。教師の教室での講義はその教師の持っているもののほんの一部、氷山の露出部分、鉱脈の露頭のようなものと申していいでありましょうから、諸君は大学にいる間に、多くの教師に深く接触して、その露頭の奥にひそんでいる広く深い鉱脈をさぐり出し、そこに諸君の精神的成長のための滋養を吸収すべきであります。大学の教師は小学校や中学校あるいは高等学校の教師のように、手とり足とりして諸君の面倒をみてくれたり、親切に何もかも教えてくれたりはしないものです。それは諸君を大人として、自由な人格として待遇しようとしていることの現われであって決して不親切や不熱心のせいではありません。大学には幅広い自由がありますが、この自由によって諸君のうちのある人は最大の滋養を摂取するでしょうし、またある人は最少の滋養さえ摂取しないで終るでしこう。諸君が自由であるということは、諸君の考え方次第、態度次第で、そこから最大の価値も生じ得るし、最小の価値さえ生じないこともあり得るということを意味するのです。自由というものはそのようなものであります。私は諸君が大学生活のもつ自由を最も賢明に生かされることを期持する者です。

 諸君に期待したいことをあげてゆけばまだまだあるように思われますがまとめて申しますならば要するにこの場所を諸君の知性の回復の場所に使ってほしいということにつきるでありましょう。そのことを私は諸君にこの際特に期待をいたしておきたいと思うわけであります。

和光大学の特色

 ところでこの和光大学はどんな大学であるか。諸君の中には本学の入学試験を受ける決心をする前に、いろいろと本学のことを研究してみて、その上で決心した人もあることを私は知っています。ある人は、今そこに座っているのですが、いろいろと友だちにきき、印刷物をよみ、私の奮いた本などもよんで研究した上で、最後に私に面会を申しこんで、学長室にやってきて数時間も私の話をきいて、それで本学を受験する決心をした人もあります。尤もこの人は、すでに他の大学に入っていて、それを棒にふって、改めて本学の一年生に入ろうと考えた人ですから特別に真剣だったのでしょうが、そうでない人の中にも、大へんよく研究している人があることを私は知っています。しかしまた中には希望の大学に入れないで、和光なら入れるだろうと思って、受けてみたら合格したので、まあいやだが仕方がないとあきらめて入って来た人もあるかも知れません。私はそんな人を決して軽蔑するつもりはありません。ただ私どもとしては、あるいは諸君の先輩達としては、おそらくそういう諸君がよそでは五月危機とか六月危機と申しまして、入ってみたらだんだん何か幻滅の悲哀を感じてしまい他の学校へ入って行くようになるということをいわれますが、私はそういう諸君がここではおそらくは急速に自信を回復してくれるであろうということを期待しているわけであります。それも諸君自身の心構えにかかっているのでありますが、たぶんそういう諸君もいわば改めて本学を見直し、ここに生きることのよさを感じてくれるであろうということを期待しております。この期待が空虚なものにならないように期待しているのであります。

 もちろん和光大学は新設早々の大学で、欠点だらけです。施設、設備もまだ十分に整備されてはおりません。ただ和光大学に特色と言うべきものがあるとすれば、私が以上申しましたような諸君に対する期待を、よその大学に比べてより自覚的に持っており、諸君がこれらの期待に十分にこたえるような大学生活を実現するために必要と思われる諸条件をできるだけ十分に提供しようと努力していることだと申して上るしいのではないでしょうか。例えばこの大学では最大限の学習の自由を諸君に保障しようとしております。またなるべく型にはまった試験でなく、諸君が自主的にとりくみ、独自の判断をし、個性的なものを生み出すようなブロゼクト、あるいはレポートによって評価をする方針をとっております。諸君の仲間同士、諸君と敦師との接触を十分可能にするために、少人数制のコア・クラスシステムを取っております。学長室は私のからだがあいている限り、誰でもやって来て気軽に話をしたり聞いたりできるようになっております。

 あるいは本学には新設大学としては比較的蔵書数の多い、また閲覧座席数の多い図書館が用意されております。幸いに今の二年次、三年次の学生諸君は、いわゆる大学の前期教育を受ける時期であるにもかかわらず図書館の利用率は全国の私立大学では最高の数字を示しているようであります。また諸君がただのせまい専門家になり終らないために、諸君が世界と人生について思索するための糧となるような講義を後期一般教育として、三、四年次に開講するようになっております。そのほか、たぶんほかの大学ではあまり見られない、いろいろのシステムが工夫されておりますが、それらはすべてこれまでに述べたような私どもの期待を諸君が充たしてくれるために必要な条件の整備に外なりません。それらはただの条件であり、環境であるのです。どんなに少人数のクラスでシンミリと話しあえるようになっていても、その条件を生かしてゆこうという気構えが諸君の方になければ、それは無きに等しいのです。学長室には誰でも来てダべって行ってもいいということになっていても来る気のない人には何の意味もありません。レポートを課することによって諸君の研究エネルギーや思考力を訓練しようとしても諸君自身が、それよりも一夜づけの勉強で片づくテストの方が安易でいいと考えて、お座なりのレポートしか書かないのなら、何の意味もありません。

 だから、本学の特色としてパンフレットに書いてあったり、いくらか世間でもあげつらっていることは、実は諸君自身が特色のある大学生活をみずから実現するための好条件がよそに比べて、いくらかよりよく用意してあるということにすぎないのであって、諸君にそれを活用する意志がないなら、それは猫に小判の類で意味のないことであります。逆に言うならどんな悪条件だらけの大学に居ても意志次第・心がけ次第では、私が申したような期待にこたえる大学生活も不可能ではありますまい。私は悪評高いマスプロ大学や、教育的配慮に冷淡な従って学習の設備とシステムの極めて不完全な大学にも、私がのべたような期待にまことによくこたえている学生諸君が少なくないことを知っています。諸君が意味のある大学生生活を実現するか否かは、究極的には諸君一人一人の意志にかかっているのです。本学を実質的に特色ある大学にするか否かは諸君自身の内なる意志にかかっているのです。

 私どもは諸君がこの大学で過ごすこれから数年間の生活が諸君にとって、また諸君の属する社会と人類の生活にとって、意味深いものになるように、諸君と共に真摯に大学作りをやって行きたいと念願しておりますが、究極のところ大学は諸君一人一人の心の中に諸君自身によって創造されるより外はないものであることを申しあげて、私の話を終りたいと思います。

(昭和四三年四月)