昭和四九年度新入生に対する学長講話

沢柳先生と和光のつながり

はじめに

 学長の梅根です。最初に、新しく入学された学生諸君に対しておめでとうを申し上げたいと思います。これから四年間、この学園で勉強をされるわけでありますけれども、今までの高等学校までの学習生活が必ずしも安定した落ち着いた学習生活ではなかったむきもあったろうかと思いますが、どうかこの四年間をじっくり落ち着いて人生勉強と学問の勉強をやっていただきたいと期待しております。

 今日は初めでありますから、恒例によりまして少しあれこれとりまぜて若干のお話をするわけでありますが、皆さんのお手もとに、昨年のこの機会に私がお話をしたことのほぼ全文が配られてあると思います。それには、和光大学の正面の図書館前に置いてあります胸像のことに係わって、その胸像の主であります沢柳政太郎博士のことが三分の一くらい書いてあります。それから、和光学園の和光というのはいったいどういう意味かということも若干述べてあります。そして最後に残りのスペースで諸君のこの大学における学習の姿勢や態度について、私が日頃思っておりますところの一端を述べてありまして、これは諸君に読んでいただければ理解していただけることでありますから読んでいただきたいと思いますが、今日はその中の、特に第一の項目の沢柳政太郎博士について、そこに書いてありますことよりも少し詳しくお話をし、それと今の和光学園あるいは和光大学がどのようなつながりを持とうとしているのか、そこに何を学ぼうとしているのかといったようなことにも触れながら、いわば和光学園、和光大学の歴史について少し立ち入ったお話をしておきたいと思っております。

沢柳先生の胸像

 お配りした和光大学通信の学生版四号のトップに沢柳先生の胸像という題で簡単に沢柳先生の経歴を述べてあります。これは非常に簡単でありますから、今日のお話は結局、これにやや付言をしながら肉付けをしてゆくというような話になろうかと思います。一般に沢柳先生の話をするということではなく、沢柳先生と我々のつながりといったようなことを念頭におきながら、又我々は沢柳先生に何を学ぶべきかというようなことを考えながら少し講話ふうにお話をしてみようかと思っております。

 なぜ和光大学が沢柳先生の胸像を置くのかというその主旨についてもさっきの文献にほぼ述べてあります。私が和光大学の学長を引き受けました時に、じつは私の友人で、沢柳大五郎君という、いま早稲田大学の美術史の教授をしておられますが、この方が私のおりました東京教育大学の教授として、私の同僚としておられました。そこで、沢柳君に、先生の肖像か何かないのかということをお聞きしたところ、沢柳君は家へ帰られ、親戚の方々と相談をした結果、神田の一ツ橋の教育会館、これは現在、日本教職員組合の本部になっておりますが、今丁度あの場所に新しい会館を建てるというので、目下解体中であります。そこに、親父の油絵の肖像があるらしい、ということを沢柳君から聞きました。そこで、私はさっそくそこへ参りまして、当時の日教組の中央執行委員長の宮之原貞光君、現在は参議院議員ですが、その宮之原君に会いまして、こういう話を聞いてきたのだが、あなたのところに何かないかという話をいたしました。

 そうしますと宮之原君は、そういうものがあるという話は聞いたことがない、しかし、ブロンズの胸像がありますよ、ということを彼は申しました。それはどこにあるのかとたずねましたら、先生がいつもいらっしゃる四階の講堂に置いてあるという、僕はいつも行っているけれども一度も見たことがない、といったら、それはその筈だ、というんです、まあとにかく見せてくれということで、宮之原君に案内をして貰って、四階の、私の知っている講堂にまいりました。これですよ、といって彼が示してくれました、講堂の正面のステージの左の脇に衝立が一つ置いてあります、彼はその衝立を取り払いました、そうすると、その衝立の後ろに、今本学にあります沢柳博士の胸像が置いてありました。どうしてこんな衝立など立ててあるのかと申しましたら、それは、日本教職員組合が出来た時に、その前にありました、帝国教育会というのが解散して日本教職員組合があの会館を使うということになった時、じつは、内部に意見があって、あれは帝国教育会の会長の胸像である、それをそのまま我々の会館の講堂に置くわけにはゆかないということで、じつは衝立で隠してあるんだと、こういう話でした。

 しかし、宮之原君というのは仲々物わかりのいい人で、沢柳先生の日本の教育界に残した業績についてはいろいろと知っており、又大事な方だということも分っている人ですから、我々が沢柳先生の胸像の前に衝立を置いて隠しているのはなんだか心苦しい、という気持を自分は持っていた、たまたま先生から、そういう話があるのであれば、和光の方へお引き取り願うということは、まことに結構でございましょうという話でした。そうして貰えるならば大変嬉しい、といってその日は帰ってまいりました。そうしますと、暫くたってみんなと相談をしてみたけれども、実はこの沢柳先生の胸像は、財団法人教育会館という法人があって、我々がそれを引き継いでいるのだが、その財団法人教育会館の財産台帳というのがあって、その財産台帳の中にこの胸像が入っている、つまりこれは教育会館の財産なんです。そう簡単にお引き渡しするわけにはゆきません、というから、それは困った、何かうまい方法はないかと相談いたしました。これもみんなで相談したんですが、もし、先生の名前で財団法人教育会館宛に借用証書を一札お入れ下さるならば、お貸しいたしましょう、お譲りするわけにはゆきませんがお貸しはいたしましょうということになりました。その借用証書は期限のない借用証書、いってみれば永久借用証書とでもいうべきものでありました。ではまあ書こうということで私は借用証書を一札入れました。ということで沢柳先生の胸像は教育会館からここへ移ったわけです。貰ったとは言えませんが、永久に借りたということで、和光大学の準財産になっております。

 お手元の冊子にも書いてございますように作者も北村西望といって今も生きておられ、芸術院会員である立派な方です。お隣りの玉川学園の学長であります小原国芳さんが本学の開学の時に来られて、あの胸像をご覧になり、梅根さん、これはどこから持ってきたのか、とたずねられました。成城学園にも小さなものがあるけれど、成城学園のものに比べるとはるかに立派だといって大変感心されておりました。できればコピーを取りたいといったので、どうぞといったんですが、その後コピーを取るといったような話はなくそのままになっております。そういういきさつであそこに位置づけてあるというわけでございます。そんなことで沢柳先生のお話を少しいたしたいと思います。

校長を転々と

 およその経歴は和光大学通信に簡単に書いてございますから、その中の要所要所いくつかを取り上げて、この人の教育精神、我々が引き継ぐべきものはなんであろうかというようなことに重点を置いて若干のお話をしてみたいと思います。

 東京大学を出られますと秀才として属目をされて直ちに文部省に入りました。若手の文部官僚でありまして、私などは文部官僚になることは嫌いですが、その当時の東大の卒業生はみんな役人になったんですからね、これはまあ仕様がないです。一年あまりするうちに辞めまして、幾つかの学校の校長になって転々といたしました。

 最初は、京都の本願寺の大谷中学校にまいりました。やはり学校が非常に困難な状態にあったために、それを再建する使命を帯びてそこへ参りました。数年おりまして、それから群馬県立前橋中学校の校長になりました。二十何歳かの時です。丁度学校粉争中でありまして、当局は困っていた、沢柳ならまあなんとかするだろうと呼んできたんですが、まあなんとかしたらしいのです。そこには二年程おりまして、今度は、仙台の第二高等学校の校長になりました。この時も学校は紛争中でありまして、そこでの粉争処理に苦労したようですが、これも約一年で辞めて、今度は東京の第一高等学校の校長として転職をいたしました。この辺のこともお話をするといろいろありますが、例えば、第一高等学校の校長になりましてその改革をしようということになりましたが、まず人だ、人を探すことだというので、当時、鹿児島県の 一小学校の教師をしておりました訓導を拾い上げて、第一高等学校の舎監長にするといったようなことをいたしまして、これが、後の一高の伝統を作り上げた人物でありますが、そういうことをやりまして、ここにはわずか七ヵ月しかおりませんでした。

学務局長時代

 そうして三三歳の時にまた文部省に戻りまして、普通学務局長になりました。学務局長と申しますと非常に高い要職なんですね、今でも局長というのは次官の次なんです。文部大臣、文部次官、その次に幾つかの局長がいるという、最高の要職ですが、三三歳でその普通学務局長に抜てきをされました。普通学務局と申しますのは、主として小学校や中学校のことを扱っている、セクションです。そこの局長になりまして、ここは少し長くて一〇年以上おりましたが、その間、文部大臣は次から次へと七人も変わる、局長はじっと一〇年もそこで働いている、というわけで結局局長が中心になって仕事をしたという状態であったようです。

 沢柳先生は後の回想録で、大臣たちというのは半年か一年で変わってしまう、ああいうことでは国の行政はじっくり落ち着いてやれないんだということを感想として述べております。その普通学務局長としてやりました仕事の中から、そこにも幾つか書いてありますが、一つは、それまで日本の小学校は義務制ではありましたが修学年限は四年ないし三年ということになっておりました。これは二〇年代に四年であったものを三年でもよいと後退させたものでありましたがこれを全部四年にする、小学校は非常に大事な教育なんだから全部四年にしようというので、全部四年制にいたしました。これが四〇年まで続くわけです。

 それまでは小学校の教育というのは、授業料を取っておりました。教育の中身は国家主義的で、国家にとって必要な人物を養成するというのが基本であって、やはり義務教育というのは、義務として学校に出てこいと命令するわけでしたが、それでも授業料は取るんだということで、市町村は授業料を徴収しておりました。沢柳先生はその授業料徴収はやめるんだ、義務教育は無償でなければならないということを決定いたしまして、その時の教育令で初めて義務教育無償の原則を立てました。それ以来義務教育はすべて日本では無償、少なくとも授業料は取らないということになって今日に及んでおります。今日は義務教育は中学校までですから一五歳までですが、その時は四年生までをそういう形で無償制にいたしました。だから沢柳先生は近代の日本における義務教育無償制の最初の礎を築いた人として歴史上に名前が残っております。ところが義務教育を無償にするといいましても、市町村が大変貧乏でしたから、授業料を取らないと先生がたの俸給が払えない、といったような問題が起こりました。沢柳先生はこの問題に関しまして、たまたま日清戦争がありまして日本が勝ち、清国から一千万円の賠償金を受け取ることになりました。その一千万円をどう使うかということが内閣で議論になりましたけれども、沢柳先生は、これは教育に使うべきものだということを主張いたしまして、それが通りまして、教員の俸給費の補助をすることになりました。義務教育の無償制度の裏付けとしての国庫補助制度がその時に始まったのです。これで小学校が安定するようになったといわれております。

 いま一つ大事なことは、明治一九年に日本には大きな教育制度の改革がありまして、森有礼という文部大臣が現われまして、根本的なといっていいような改革をいたしました。改革の一つの重点は、小学校、中学校の、当時必修科目ではなかった体操を必修科目にするということ、その体操の中身ですが、小学校は隊列運動といい、中学校は兵式体操といいます。つまり、軍国主義的な軍人教育の予備教育を小学校、中学校を通じてやるんだという原則を立てました。もちろんこれは男子だけで女の子はやりません。こういう時間には女の子は裁縫をやらされていたわけです。この制度が沢柳先生が普通学務局長になるまで続いております。沢柳先生は中学校までは手をつけられませんでしたが、少なくとも小学校における教練を廃止するということをその時の小学校令で決定いたしました。つまり、小学校から軍国主義を勉強するなんていうことはいけないんだという考えで教練の廃止を決定いたしました。

 このことは、その後の日本教育史の研究者の間でも余り大きく評価されておりませんで今日に及んでおりますが、しかし、歴史的には非常に大きな仕事であったと私は考えております。それから、小学校の段階ではいわゆる試験をいたしまして、点をつけまして、それを通信簿に書いて学校にも保存し、親にも知らせるということが、その前の制度でできておりました。沢柳先生はこの点に着目いたしまして、小学校では試験はしない、成績の評価をしない、家庭には通知をしない、点をつけて子供に序列をつけるなんていうようなことはいかんということでこの小学校令では試験廃止をやっております。今日でいうとテスト廃止といったようなことで彼はその当時かなり思い切ったことを孝えて、制度の上にそれを明記するというようなことをいたしております。

 そういう点で申しますと、沢柳先生が明治三三年に普通学務局長として小学校教育の改革をやったということは、日本の教育の歴史上では非常に大きな記念すべきひとこまであったであろうと私は考えております。なお、沢柳先生はその頃から小学校教育の重要性ということを非常に強く考えておりまして、後の話とも関係がありますが、彼はこのようなことをいっております。小学校教育を皆んなバカにしている、金がないからといって、政府は、あんなものに金を出す必要がないということを絶えずいっているが、それは間違いである。小学校教育こそ大事にすべきものである。そして小学校教育を徹底的にやったならば、じつは、上の方の高等学校とか大学とかいうのはいらないのかも知れないという、なかなか面白い話をしております。というのはどういうことかと申しますと、小学校では国で決めたことを頭ごなしに教え込んで、覚えこませて点をつけるなんていうことをやっちゃいかんのだ、子供のうちに、当時の沢柳先生の言葉を使いますと、自学自習の精神というんです。自分で本を読み、自分で研究をする、沢山の知識を覚えているのではなく、自ら学び、自ら研究をする姿勢というものを小学校の時代からしっかり敢えておけば、あとは自分でやるだろう、大学なんていうものは図書館さえあればいい、このような調子のことを、彼はその頃申しております。そういう意味で、初等教育を非常に大事にしようという考え方を持っていた人であります。

 そのあとの仕事は、四〇年からの文部次官になった時期でありますが、文部次官としては若手の次官でありましたが数年やりました。この文部次官時代にやりました仕事の一番大きいのは、義務教育を四年から六年に延ばす義務教育の年限延長という事業です。これもいろいろ抵抗があり容易なことではありませんでしたが、結局皆んなを説得して義務教育六年制ということにいたしました。これも日本の教育史上非常に大きなことです。六年間の無償の義務教育をやるということです。その上にのせる学校、昔から小学校は下級、上級の二つに分かれていて、制度上は、下が四年、上が四年、上の方を高等小学校、小学校高等科などと申しておりましたが、この部分はそれまでは尋常小学校四年間を終えた者がそのまま実務に着くために必要な、いわば実用的な教育をするということを中心にしておりましたが、それはいけないのだ、この高等小学校はやはり中学校並みに普通教育をやるんだというようなことを申しまして後の六、三制のいわば土台を開いたといったようなこともいたしております。このような幾つかの日本の教育史上、画期的な改革をやってきた人であります。

東北大学を作った

 その次の仕事は、東北帝国大学、今の東北大学が創立されることになりまして、その創立当初の総長となりました。四十幾つかの若き総長であります。ここでまた二年間ばかり創立事業をいたしました。この時もまた幾つかの注目すべき重点があります。

 それまで、日本には大学は帝国大学しかなかったんです。他は皆んな専門学校でした。帝国大学も東京帝国大学、京都帝国大学の二つだけですから、その帝国大学に誰れを入れるかということについて、沢柳先生以前にすべてこれは旧制高等学校の三年を修了した者ということになっておりました。沢柳先生は、それはいかん、大学教育の門戸開放をしなくてはいけないというので、その当時の専門学校の卒業生も試験を受けて入れるというように、門戸を拡げました。同時に日本で最初に女子の大学生を入れるということを開いたのも沢柳先生であります。その当時、東京大学、京都大学の両大学は、もちろん女子学生は入れないという方針でおりました。受験資格もないということでありましたが、沢柳先生は、そういうことではいけない、大学教育を受けるにふさわしい人であれば、男子であろうと、女子であろうと全く公平に入れるべきであるということをいいまして、そこで初めて東北帝国大学に女子学生が現われたという、これも日本の教育史上画期的なことです。男女共学の大学が日本にただ一つできたわけです。

 その当時は、大学に入るための予備資格としては、女子の場合では若干の専門学校がありました。東京の女子高等師範などですね、そういう女子の専門学校から試験を受けて大学に入るという道を開いたのは沢柳先生であります。大学の門戸開放というのが一つの着眼点でありました。

 いま一つの着眼点は、大学というところは、何をおいてもすぐれた学者、研究者がおるということが基本であり、そのすぐれた学者、研究者に対して学生がついて来るということが基本なんだから、その人探しをしようというので、沢柳先生は必死になって人探しをいたしました。国内では、例えば、東京大学の卒業生ではないが、在野の研究者として光っているというように世間でも見られている人が、しかし、東京大学の卒業生ではないがために、博士論文を東大に出してもなかなか通らないというような人がいる、そういう人を探して、いきなり東北帝国大学の教授に据えるということを幾つかやったわけです。

 それから、当時世界的に有名でありましたドイツのアインシュタイン博士を連れてこようというので努力をいたしました。これはほぼ話がまとまりましたが、途中から、当時のドイツにおける最高学府でありましたベルリン大学から、欠員ができたからこないかという話があり、アインシュタインとしては、東京に行くよりもベルリン大学の方がよかろうというので東京へ来ることをやめました。東京へ来ることをやめたばかりに、後に彼は、ナチス時代にとうとう追われてアメリカへ逃げてゆくということになりますが、もし東北帝国大学にいたらアメリカへ追われなくて済んだかも知れません。そしておそらく湯川、朝永両ノーベル賞物理学者以前に、それに匹敬する、あるいはそれ以上の物理学者が何人も日本に出たかも知れないというように思われます。

 このようにして二年間東北帝国大学の創立に努力いたしまして、やがて彼は京都大学の総長になりました。

京都大学時代

 京都大学にも二年足らずしかおりませんでしたが、ここでやりました仕事もいろいろありましたが、まず優秀な教授がいなければならない、教授あっての大学であるというので、東奔西走したようであります。

 ここには、沢柳政太郎先生の、いわばキズと申しますか、汚点と申しますか、欠点と申しますか一つの問題が起こりました。例えば、最近書かれているものについて申しますと、あの教科書裁判の教育大学の、家永三郎君が「大学の自由の歴史」という本を書いておりますが、その中では沢柳先生は大学の自治を犯した悪人にされております。私は、家永君とは親しいし、家永君の学問の精神も知っておりますけれど、その一点についてはやや説明を要するのではないかと考えております。確かに、表面的に見ますとそのとおりです、と申しますのは、沢柳先生が京都大学へ行ってよく見ますと、どうも大学の教授らしくない教授がいる、というので、ああいう教授には辞めて貰った方がいいのではないかということを、文学部の教授会に相談をいたしました。文学部の教授会は、それは出来ないと拒否をいたしました。それでは僕がやるから、というので、もともと沢柳という人はずっと文部官僚で育ってきた人ですから、明治官僚制度の空気を、やはり自分の体の中に残しているということもあって、思い切って、いきなり退職勧告をし、教授七名を辞めさせてしまった。これはもう大変なことですね、隣りのそれで法学部の教授会が、法学部でもそういうことをされては困るというので立ち上り、京都大学紛争というのが起こります。

 沢柳先生は、それは確かに悪かった、しかし、大学のいのちを若々しいものにするためには仕方がなかったというような感想を持っていたようであります。その結果、どう解決したかと申しますと、僕自身も天下り学長なんだ、学長の判断というものが絶えず全学の教授の判断を基礎にしてやってゆくということは、それは民主的である、そのためには京都大学の学長の選考は、今後は選挙制度にして皆んなの信任を得た者が学長になるというようにすべきではないだろうかというのが第一点。第二点は、学問のできる人はいつまででもおやりなさい、あまりできない人は早くおやめなさいというようなことはなかなか決められない、民主的に決めようと思ってもそうは決まらない、そこで、これは一長一短あるけれども、しかるべき時期に皆んな辞めようではないか、若い諸君と入れ替わろうじやないかということで、定年制を設けてはどうだろうという発言が沢柳先生から出されまして、それが今日の大学における定年制の出発点になっているということです。

 これは一長一短ありますが、沢柳先生はただ引き下っただけではなく、あとに学長選挙制、定年制という二つの大きな置きみやげを残してあっさり京都大学の総長を辞めてしまいました。それから、公立大学、国立大学等から一切縁を切ってしまい、民間人になってしまいました。

生涯をかけた成城小学校

 一方では先きほど申しました帝国教育会という大変大きな教員団体を改革することに努力しまして、ずっと永く帝国教育会の会長をしておりました。今でいえば日教組の中央執行委員長ですね、一方では有名な成城小学校を作りました。

 文部次官をやり、東北大学の総長をやり、京都大学の総長をやった人物が小さな一つの小学校を作って、これこそはおれの一つの仕事であると言って、その後その小学校の経営に生涯を賭けたということは、当時の世間的な常識から申しますと、非常に異常な、非常にケタ外れなことであったろうと思われますが、本当に沢柳先生はこの小学校の経営に、いわばいのちを賭けたといってもいいようなことになります。

 その成城小学校が何をやったかということについてはいろいろお話をすることがありますが、まず第一に、彼は小学校教育というものがお上の指図どおりに教えるというようなことをしていたのでは、小学校教育の重要さから考えていけないことなんだ、小学校教育は根本的に改革をする必要がある、それこそが日本の教育改革の根本である、基本であると考え、さきに言ったように本当にいい小学校教育ができておれば大学教育などいらないかも知れないと彼は考えておりましたから、そういう意味で小学校教育の改革に非常に情熱を傾けたということになります。どう改革するかということについては、世界的にいろいろ言われている、改革案も出ている、しかし、大事なことは、個人が頭の中で改革案を考えるのではなく、実際にやってみて実験をしていいか悪いかを確かめてみるといったような研究をしなければ改革は出来ないんだというので成城小学校を実験学校と申しました、ラボラトリー・スクールといいます。これは外国に前例がありましてそれから引き継いだものでしょう。ラボラトリーというのは自然科学では実験室というように申しますが、もっと広く、研究学校というべきものです。どういうふうに教育することが本当にいいのかということを皆んなで研究をしてゆこうじゃないかという、研究学校というモットーを掲げまして成城小学校を作りました。

 いろいろなことをやってみようというのでいろいろなことを試みたんですが、彼は自学自習ということを非常に強調しておりますし、試験で点をつけて子供たちに順序をつけるなどということは根本的に間違っているという考え方を持っておりましたから、この成城小学校は試験を一切しない、通信簿を出さないという方針を一本立てております。

 少人数教育ということを申しまして、その頃の公立学校は一学級六〇〜七〇人と入れておりましたが、一学級三〇人でやってゆこうというようなことも試みております。もっとも最初の年は二六人しか入りませんでしたが後には一学級三〇人ずつの二学級制に変ってまいります。基本的には自学自習という自発的な学習をするということが基本でありまして、もう一つはいわゆる個性教育ということを非常に強調いたしました。一人一人がそれそれユニークな人間として育ってゆくということが教育なんだ、画一教育はいけないということを強調いたしまして、その立場から教育内容、教育課程、時間割等についていろいろな改革を試みております。

成城小学校のカリキュラム

 「沢柳政太郎」という本を私はいまここに持ってきておりますが、これは、新田貴代という沢柳先生のお孫さんに当る方が最近書かれた本であります。これを読んでみますと、時間割が書いてある。沢柳さんは、文部次官をやった人であり、普通学務局長をやり小学校令を作った人であり、お役所の小学校の規則を作る親玉なんです。今日、日本の小学校や中学校は学習指導要領の拘束性といってその親玉の作った学習指導要領に忠実に従わなければならないようになっている。これを変えることは、日本の公立でも私立でも許し難いということになっております、これを見ますと、文部次官であった沢柳先生が成城に来て作った教育謀程というのは、文部省の教育課程とはガラリと変っている。

 まず、科目に体操、修身、読み方、書き方、読書、綴り方、書き方と並んでおりますが、その次に美術というのがあります。公立小学校では図画、手工という教科があります。図画と申しておりましたが、図画という名はいかんというので一年生から美術という名に変え、唱歌を音楽と変えております。算術を数学といっております。すべて文化社会における名称をそのまま使うということでそういう名称が使われている。

 面白いのは、数学は一年生ではやらない。一年生は予備教育で、その他の教科でいろいろなことをやっている時にその間に計算のことが自然に覚えられてくるようにすればよい。数学の初歩は二年から、教科としては二年から始めるということをやっております。理科、これはまた別で、その当時の理科というのは尋常小学校ではやらなかった、上の方にいって五年生になって初めて理科が始まるということでしたが、これを自然観察という形で一年生から始めている、英語を小学校の一年生から入れております。

 また小学校四年、五、六年と特別研究という科目を置いてあります。これは選択科目なんですね。グループを作って何んでもやりたいことをグループでおやりなさいというようなことを週に二時間ずつとっております。当時の日本の小学校、特に文部省のルールからいうと全くルール外れの教育計画を立てまして、これを成城でずっと続けてやってきたという、そういうことなんです。

 更にびっくりするのは文部省が一ばん大事な教科として、一年生から教えることにしていた修身科を、一年から三年までは置かないで四年から始めることにしている。何年か前まで自分が次官や局長をしていた人が、そんな大胆なことをやっているのです。

中学校はいらない

 この成城小学校というのは後に、いろいろ学内で問題がありまして、まず、小学校だけでは困る、小学校の上に中学校を作りたいという話が出てまいりました、というのは、小学校は文部省型の小学校と違った小学校教育をやっている、小学校を卒業すると中学校へ行きたい子供がいる、中学校は文部省型の中学校で、文部省型の入学試験をしている、成城で育った子供たちはその中学校の試験にうまく受かりそうにないというのが父兄の方々の心配でありました。

 そこで、成城には成城の中学校を作って、そこにストレートに入ってゆけるようにしたらどうかという声が父兄から出てまいりました。お隣りの小原先生の悪口をあまり言ってはいけませんが、小原先生は、やはりそうすべきだ、経営上の立場からもそうすべきだ、そうしなければ成城に入ってくる子供はいなくなる、というので父兄の声を代表して、中学校を作ろうということに一生懸命でした。小原さんは、その頃京大の卒業生で、呼ばれて成城の主事になっておられましたから、沢柳先生の所へしょっちゅう行って、どうか中学校を作らせて下さいと沢柳先生を説得したんです。

 けれども沢柳先生は頑としてきかない、中学校を作るなんてとんでもないと言ってきかなかったらしい、それでも、何度も何度も押しかけて行って説得をいたしました。そのうちに、沢柳先生は外国へ研究のために出かけるということになりました。出かける直前にまた小原さんは沢柳先生の所へ行って、是非、中学校を作らせてくれと談じ込んだ。沢柳先生は、それはいかんやめた方がいいという、それでは成城はつぶれますよと小原さんがいうと、つぶれたっていいじゃないか、子供が一人だけ残るまでやろうじゃないか、一人もいなくなったら自然消滅だろう、それでもいいよ、誰れかがまたやるだろう、こういう返事をしたといわれております。それでも小原先生は一生懸命に頑張りまして、とうとう沢柳先生が負けて、そうか、じゃあお前やってみろ、と言ってそのままヨーロッパへ出かけて行った。帰ってみたら中学校ができていたという話があります。

 中学校の上に高等学校がのっていきます。合わせて七年制の高等学校になります。それは後の話ですが、そのように沢柳先生は一面非常に頑固な人で、中学校を作るべきではない、成城小学校で一貫すべきである、小学校教育の研究をする学園であるべきだということで終始一貫した方針を貫いておられたようであります。

和光学園ができるまで

 多少余談になりますが、和光学園というのは、小学校だけで始まった学校です。後にやはりいろいろな事情で中学校を作りました。それから高等学校、大学を作りました。

 和光大学ができます時に、沢柳先生のこの本を読んでいたわけではありませんから沢柳先生にならったわけではありませんけれど、私は、大学を作ることには反対でした。高等学校まで作ったんだからそれでいいだろう、本当は小学校だけでもいいんだ、立ってゆけないから上にのせるというだけの話であって、経営上成立つなら小学校だけでよろしい、小学校の研究をすべきではないか、というように私は考えておりました。

 経営上やむを得なく中学校を作り、高等学校を作りさらに大学を作るということになってきたのでありますが、その時に私は私なりにこう考えました。経営上やむを得ず上に中学校、高等学校、大学を作るのであろうけれども作る以上は問題は小学校だけにあるのではないのだから、やはり沢柳精神に従って、一体中学校はどうあるべきか、高等学校はどうあるべきか、大学ほどうあるべきかということを沢柳的精神でもって実験的に研究してゆくということが上にのせてゆく理由であるというようなことで、和光大学は実験大学であるというようなことを当初申してまいりました。

 本当に実験大学になっているかどうかということについてはいろいろな議論がありましょうが、そういう主旨で私は和光学園の一環として和光大学を作ることにしぶしぶながら賛成をしたというのがいきさつであります。それでこの本を読んでみますと、ああ沢柳先生もそうだったのか、というふうに私は感じております。どちらがよかったのかそれは分かりません。

 そういうことで、成城は戦後、大学を作り成城大学ということになりました。和光はずっと遅れて成城にならった一貫した大学ということになってしまいましたが、どちらがよかったかということは、後の歴史的な評価でありまして、どちらがいいかあらかじめ決めておくべきことではありませんが、そこに沢柳先生の精神というものがあるだろう、中学校を作れば中学校は高等学校の予備校になってしまう、高等学校を作れば大学の予備校になってしまう、本当の教育研究はできないであろうというのが沢柳先生の精神であったらしい。その精神だけは非常に貴重なものであると私は思っております。

 沢柳先生はこのようにして、日本の教育界に非常に大きな足跡を残した方であります。

 和光学園は、先生が亡くなられまして一二年後に、今の世田谷の経堂の近くに小さな、ちょうど沢柳先生が成城小学校を作られた時とほぼ同じような一握りの小学校として生まれた学校であります。何故生まれたかと申しますと、沢柳先生の作られた成城小学校がその後の政治的な動きの中で次第に沢柳先生の精神を生かすことの出来ないような状態になってきているということもあって、沢柳精神をもう一度どこかで生かそうじゃないかという声が出てまいりました。そこで和光学園というのが生まれてきたという歴史があります。その辺のことは「ある私立学校の足跡」サブタイトルは和光学園四〇年の教育という大きな本がありますが、この本にかなり詳しく書いてあります。

 そういうことで沢柳精神が麻痺しつつある状況の中でもう一度沢柳精神を復活させようじゃないかということで有志の人たちが集って、昭和九年小さな学校を作ったというのが和光小学校であります。それが、先きほど申しました事情で中学校をのせ、高等学校をのせ、大学を作るといったようなことで、今日のかなりの規模の和光学園になったというわけであります。

 そういう歴史を持って和光学園は成城学園とではなく、むしろ沢柳先生と内面的には深くつながっている学園であると私は考えております。そういう歴史をふまえて、私は先きほど申しましたように、是非沢柳先生の肖像か何かを欲しいということで、あの胸像を手に入れたということになっております。胸像だけがあっても仕方がありません。その精神をいかに生かしてゆくかということが我々の学園の課題であろうというのでずっとその後もそのことを思い続けているわけであります。

 そういういきさつを経て和光学園が生まれ、和光大学が生まれてきたという歴史だけは皆さんによく知っておいていただきたい、その歴史をふまえて我々が何をなし得るか、この学園がどんな学園になり得るかということが現在の教職員と現在の学生との間で考え、あるいは探求してゆくべき問題であり、誰れかが上から天下り的に決めてゆくべき性質のものではありません。それでは和光学園の精神あるいは成城学園の精神に反するわけですから、皆んなで作りましょう。皆んなで和光作りをいたしましょうということが出発点になっているわけです。

 どうか、そういう考え方をもとに頭に入れて新しく入った学生諸君には今後学生生活を過ごしていただきたいと思います。その他のことにつきましては、さきほどお配りしました冊子に書いてあります。又明日以後のオリエンテーションでもそれぞれの関係の方から話があろうかと思いますので、その辺のことを十分に了解していただいた上で一緒に勉強してゆきたいと思います。

(昭和四九年四月)