昭和四八年度新入生に対する学長講話

和光同塵

和光のゆらい

 和光学園の中には和光大学以下和光幼稚園まで和光と名前のつく学校が六つあります。その和光、和光大学というのは何かということを少しお話をしておきたいと思うのです。

 これは、「和光学園三十年史」といったような印刷物がありますが、それを見てもあまりはっきりしたことが書かれていない、和光大学ができました頃、いろいろな方から、和光大学というのはどういう大学かと聞かれました。

 まず、女子大学かという質問がありました。何かおとなしそうな名前がついているから女子大学ではないかというお話がありました。いやそうじゃない、男女共学だといいましたら、じゃあ、時計の服部和光と関係があるかというから、いやそれも関係ないという話をしました、昔から子供の薬を売っている和光堂という薬屋さんがあるがその薬屋さんと何か関係があるのか、いやそれも関係がないというと、それでは仏教大学かとおっしゃる、それも関係がない、和光学園の理事長さんは、現在は仏教関係の方ですが、和光大学自身は仏教とはなんの関係もない。じゃあなんだとおっしゃいますと、私にはわかりませんと言ったものです。

 近頃は和光という名前をつけているところが沢山ありますね、和光大学の他に皆さんの目につくところが沢山あるでしょう、和光証券という株屋さんがある。和光建設という土建屋さんがある。和光何とかという旅館がある。レストラン和光などという看板が目につく。トルコ風呂にも和光という名のついているのがあるらしい。全く「和光」ばやりです。どうして和光ということばがこんなにはやり出したのかわかりませんけれども、わが和光は昭和九年以来の名前で、最近の流行に便乗したのでぱありません。

 その和光ということばを辞書でみますと、中国の「老子」という古典があります。その古典に「和光同塵」ということばがあるんです。詳しいことは存じませんが、「和光」というのは光をやわらげるということらしいですね。同塵というのはよくわかりませんが、どうやら四字の意味を私なりに解釈すると、学者の心構えのようなものを述べているらしい、学者というのは得てして、いばりたがる、おれは偉い学者だというのでお高くとまりたがる、象牙の塔などと申しまして、象牙の塔にたてこもり、政治がどう動いていようと、国民がどんなに困っていようと、世間のことは知ったことではない、おれはとにかく象牙の塔にたてこもって学問をすればいいんだと、一人超然としてお高くとまりがちなものである、それはいかん、どんなにすぐれた研究をしていてもお高くとまらないで、光をやわらげて、そうして民衆と一緒に、日本で言えば国民と一緒にものを考え、一緒に勉強する、公害問題が起ったなら公害問題を一緒に考えるというように、偉ぶらないでみんなと一緒に、大衆と一緒に考え、歩んでゆくという姿勢を学者というのは持っていなくてはいけないということらしいのです。私はそういうふうに解釈しているんです。

 このことばを、略して「和光」。詳しく言えば「和光同塵」そういう精神を持った「老子」の中の和光ということばを本学の創立当事者がお選びになったのだと私は理解しております。その意味で、この和光ということばにもやはり現代的な意味があるのではないか、和光学園というのはそういう精神の学園でなければならない。たいへん偉い先生が揃っていらっしゃいますけれど、偉ぶらない、高ぶらない、象牙の塔にたてこもらない、みんなと一緒に国民大衆と一緒にほこりをかぶって歩くんだ、みんなと一緒に考えるんだという精神でやってゆこうというのが、実は和光という言葉の意味であるだろうと私は理解しているし、またそれは、わが学園の先生方の心構えでもあると、私は思っております。

和光大学の特色

 和光大学の特色といったようなことを自己主張的に言えばいろいろありましょうが、私が本学園の先生方と話し合いをしてきた中で、一応こんな大学を作ってみたいということがだんだんはっきりしてきた、それは「和光大学の教育方針」にも書いてありますが、そのことについて多少ことばを変えてこれから話をしてみたいと思います。

 日本の大学は長い歴史を持っています。東京大学が生まれたのは明治一〇年、すでに九〇年の歴史を持っている、その他沢山の大学がその後次々に出来てまいりました。しかし、やはり沢柳先生が東北大学をお作りになった時とか、あるいは成城小学校をお作りになった時の状況と同じような、このままでいいのだろうかというようなことがいろいろと問題にされてくる、特に戦後大学紛争の時点から、大学をどうしたらいいかということがいろいろ議論され始めておりました。「和光通信」学生版第一号にも私はそのことにも多少触れて書いております。

 紛争の最中に、これじゃいかんというので多くの大学は自分の大学をどう改革するかということを、種々委員会を作って検討されました。その結果、改革案があちらこちらに出来ております。けれども、それは今のところ棚上げになってしまっている。東京大学は、紛争以来ずっとそのことで検討なさいましたが結局、どうしようもないということで、最近は一切諦めたという形にたっている。もとのままでやってゆこうというようなことになっております。

 私どもの大学は、そのような紛争の起こる前に始めましたから、そしていくらか日本の大学の将来の改革に役立つような実験をしてみようということで始まりましたから、その当時各大学で検討されていた改革案などについては、私どもの方は数年前に一応できておりました案を着実に実行してみようということで努力をしていたわけでありますが、そういう場合、どんな大学を作ったらよいか、日本の大学はどうあるべきかということを考えてゆく上で出てくる問題は、一つは、大学というところは職人を養成する所ではないということ、決して職人を養成するということを軽蔑するという意味ではありません。職人を養成することも非常に大事ですけれど大学というところは、特定の職業につくために必要な狭い職人的な技能だけを叩き込んで、腕ききの職人を養成するところとは少し違うだろうと思います。

 大学というところは、やはりどんなに大衆化しても、昔はほんの少しの者しか大学に入らなかったのが、今は同じ年齢層の二五パーセントから三〇パーセントも大学に入るということになっており、そのことを大学の大衆化といっておりますが、どんなに大衆化しても大学というところは、人間が生きてゆく上で、社会が発展してゆく上で大事な基本的なことをじっくりと考え、研究し、そしてそういう意味での高い識見、高い考え方を持った人たちを養成してゆく場所でなければならないということです。

 従って、そのためにはまず何よりも自由な空気というのが必要だろう。一人一人が顔が違うように、自分で研究してみたいこと、自分でじっくり考えたいことがそれぞれに違う、それを一束にして、同じことを皆んなに教えて詰め込んで試験をして、点をつけるといったようなことになってはいけないだろう、沢柳先生は個性教育をなさいましたが、そういう空気のもとで一人一人が主体的に、自主的に研充をするという場所でなければならないだろう。自由な雰囲気の中で、めいめいが自分のやりたいことをじっくり落着いてやってゆけるような、そういう場所でなければならないだろう。十把一からげの教官は出来るだけやめるべきであろうということが一つあります。自由な大学という表現でいっていいかも知れません。

 ですから、和光大学のやり方の中には、学生諸君の自由と主体性を出来るだけ大事にしてゆきたいという気持が入っております。これはいろいろな面で現われております。例えば、これからオリエンテーションを受けられるとだんだんわかってくると思いますが、この大学は、緒君をある一定の教育課程、カリキュラム、決った学習プログラムに引っ張りつけて、その学習プログラムで金縛りにするなどということをいたしません。どんな勉強をするかということは諸君の自由に任せてある、という一つの特色を持っている。

 学科の性質上、学科によって若干の違いはありますが基本的にはそうなんです。どの学部に入るかは、諸君が入学する時にいろいろな事情でお選びになるでしょう。だが入ったら、その学部、学科に釘付けになって、その学部、学科で決められた時間割、カリキュラムをただ忠実に学ばなければならないということにはなっていない。ある学部、学科に入っても他の学部、他学科の講義がかなり自由に聴けるようになっている。一学科の内部でも、どうしてもこの学科を勉強しなければ卒業させないという学科目は比較的少なくなっております。多くのものがかなり広い幅で諸君の自由な選択ができるように仕粗まれております。そういう自由な空気の中で諸君が自分を見つめながら、自分を発見してゆきながら、できるだけ深い勉強をしてゆくというようになってくれるためには、やはり諸君の学習の相手になってくれる教師が、やたらに諸君を引っ張りまわすということでは、うまくはゆかないでしょう。

過保護教育はしません

 和光大学の先生方、職員諸君は私の目から見ると大変親切な方々揃いです。私は逆に、あまり親切にしなさんなと言っているんです。過保護はいかん、放っておきなさいと時々言うんです。彼らはすでに一人前の青年なんだ、無理矢理に引っ張ってゆくことはない、たまには突き放すこともいいだろう、ついて来るという意志のある者に対しては積極的に指導してやることはもちろん望ましいけれども、無理に押し込んだり詰め込んだりすることはやめた方がいいだろうということをいつも私は申しております。だから、私の言い方を忠実に守っていて下さる先生ならば諸君にはあまり親切にはなさらない筈です。しかし、ある先生について、その先生を中心にしてその先生にくいついてその教えを受けようとするならば、その先生はどんな時間も借しまずに諸君の相手になって下さるだろうと私は思っております。

 くいついてゆくかゆかないかは諸君の自由、諸君の意志なんです。さきほども申しましたように、和光大学には相当いい先生が揃っていらっしゃいます。けれどその深い学問を持っていらっしゃる先生方の心の中に貯えられている宝を、諸君が諸君の学習のために引っ張り出すかどうかは、諸君の積極性いかんに係っている。先生方の持っていらっしゃる学問上の深い認識を諸君の宝にするかどうか、諸君にとっての宝の持ち腐れに終らせないで、いってみれば諸君の自己成長のためにフルに利用するかどうかということはもっぱら諸君の自由と責任に係っている。

 やる気さえあれば和光大学はいくらでも利用できる所であります。やる気がなければ東大のようなところへ行っても同じことですね、やる気がなければ勉強をしろなどと誰れも親切には言ってくれない、そういう気持が私の言う自由な大学ということなのです。こういう勉強をしろとか、こういう学科をとれとか、こういう講義を聴けとか言って諸君を無理に引っ張ったり強制したりするようなことは絶対にしない、その点で諸君は自由である。その自由を本当に自分にとって意味のある自由にするかしないかは、もっぱら諸君の自主的な判断、諸君の自由な意志に係っている、こういうことですね。その気持を諸君に受け取ってもらって、何か、学校におぶさっておればいいんだとか、先生におぶさっておればどこかへ連れて行ってくれるだろうなどと考えずに、教師はおるけれど、学校はそこにあるけれども、その教師、その校舎、あるいは図書館を生かして自分を肥やすかどうかというそれ自体、諸君一人一人の自由と責任に係っている。このことを最初によく心得ておいていただいて、和光大学の持っている図書館や多くのすぐれた先生方を諸君自身の立場で出来るだけフルに利用してほしい、そういう心構えがなければ和光大学に入ったということが無意味であろう。どこの大学へ入っても無意味になりますね。大学というところは和光に限らず本来そういうものであるべきところなんです。その気持をしっかり持っていただきたいと思います。

 もちろん高等学校段階でも今の和光大学の私が申しておりますようなことと若干似通よった空気で高校生を教育していらっしゃる高等学校もあります。しかし、今日の日本の高等学校の大部分はそうではなくて、先生が無理矢理に先生の決めた学科に引っぱって行って、ガリ勉をさせて、試験をして、点数をつけるというようなことになっている。そこには自由というものの空気が非常に薄くなっている。和光大学に入ってくると途端に空気が変わってくるだろう、そのことはへたをするとのんびりし過ぎて、無駄な四年間を過ごしてしまうということにもなりかねない、これも諸君の責任ですから私の方では何もいいません。せっかくの四年間を意味のあるものとして、和光大学の持っている先生方や施設を十分に諸君の立堤で利用して悔いのない大学生活を過ごしてほしい、こういうことを少しくどいですが、最初に申し上げておきたいと思います。

レポート大学

 例えば、和光大学には他の大学とは少し違ったシステムがあります。外国語などは、普通の大学では英語を第一外国語といいまして、全部の学生に、英語だけはとるようにと強制をしております。大多数の大学がそうなんです。和光の場合はそうはいたしません。英語、独語、仏語、伊語、中国語等々の外国語が並べてあって、どれでも好きな外国語を選んで学習しなさいというようにたっている、そうなると、どれを学習するかは、諸君自身が選ばなければならない、オリエンテーションを受けたら、まず諸君はそれを選ばなければならない。何か自分自身に目的もあったり、将来の方向もあったりしてこんな外国語をとっておいた方がよいという判断にもとづいて、沢山並べてあるうちのどれか一つを選ぶ。この判断は大学側では一切いたしません。その他プロ・ゼミ等他の大学にはあまりないようなものもあります。筆記試験もあまりいたしません。学科の性質上ペーパーテストを行なうこともありますが、大部分は、そうしないことにしようということになっている。

 私は一般教育の講義を一つ持っておりますが、私の講義のことを例にとりますと、沢山の諸君が聴講にくる。最初に言います。今年も言うつもりです。私の講義は聴きにきても来なくてもいい、出欠はとらない、出席をするかしないかは諸君の自由である、とこういいます。そうではなくきちんと出席をとっていらっしゃる講義もあるようですが、大学の講義というのは、多少教師の我流、個性がありますから、厳格に出席をとられる先生もいらっしゃれば、さっぱりとられない先生もいらっしゃる、それはそれぞれ考えがあってしていらっしゃることですが、私は出席をとっておりません。

 単位の認定をしなければなりませんから、点をつけなければならない。何で点をつけるか、私は一年間にだいたい二回レポートを諸君に要求する。本に書いてあることを要的してまとめなさいなどというレポートではない。自分の足で歩いて、普通の本には書いてないような資料を掘り出し、自分の目でそれを調べて、自分の考えでまとめてゆく。どんなに偉い学者の本でも、自分が出したレポートと同じ中身のことは書いてないというようなレポートを出してくることを要求するんです。そのレポートだけで採点をいたします。ただ、レポートの課題が出ますから、その課題に即してレポートを書くためには、私の講義を聴いておいた方が、多少の参考になる、便利である。私の講義を聴いていれば、多分よいレポートが書けるだろう。それだけのことはあるけれども、それ以上は要求しない。一年の二回のレポートだけで合格、不合格は決めます。私の講義はこのようになっております。

 多くの方々がレポートを要求される。学生が、レポート大学だと申しております。あまり試験をしないで、やたらにレポートを書かせるやっかいな大学だとグチをいう青年もおります。ある時、その一部の学生諸君と話をしました。先生、レポートというのは大変ですよという、いくつもいくつも書かなければならない、じゃあやめようかと言いましたら、いや、あれはやっぱりやめない方がいい、ただ、先生方が同時にレポートを要求されるというのはやりきれないから早くから出しておいてほしい。そうすれば、この一年間にレポートを十冊書かなくてはならないというのなら、きちんと自分でタイムスケジュールを作ってやるから、そういうふうにしてほしいということを申しておりました。

 先生方にも、なるべく早くレポートの課題をお出しになった方がいいでしょうと申しておりますが、私は私の講義の二回目か三回目位にレポートの課題を出します。九月に第一回目のレポートを提出させます。

 夏休み中、足を捧にしてかけずりまわって、自分で調べてレポートを書くということが私の講義の第一回の課題なんです。そういう調子であまりペーパーテストはやりたくない。諸君が主体的に、大学の一年生でもやりようによってはオリジナルな、独創的な勉強ができるんだから、そういう勉強をしなさいというふうに考えているわけです。その他いろいろ他の大学ではなされていないことを試みておりますが、諸君にやる気がなければ、こちらでどんな仕組を考えてみてもそれはまったく無意味になってしまうでしょう。その仕組に意味があるのではなくて、諸君がその仕組を生かすかどうかということに係っている。その仕組の持つ意味をよく理解して、諸君自身もその仕組みを生かすように工夫してみてほしいと思います。

辛抱強い理論闘争を

 和光大学は理性をお互いに磨き合う場所であるから、理性的な人間の生きる場所にふさわしい集団にしてゆきたいということを絶えず考えております。学習の問題でもそうでありますが、力で、権威で、あるいは権力で諸君を引っぱるようなことは極力控えたい、あくまでも諸君の理性的な自主性に訴えてゆきたいというのが一つの基本方対なのです。

 過去において、和光大学にも若干紛争らしいものがありました。しかし、和光大学はそういう状況の中でも、例えば、警察、機動隊というものを大学の方から呼び、そこで何かの事件を解決する、処理するというようなことは一度もありません。これからもやるつもりはありません。

 学則には処分規程がありますが、七年間、学生諸君を処分したことは一度もありません。処分についての扱い方、機動隊についての扱い方、力で諸君の生活や行動を規制するというようなことは極力控えたい、あくまでも諸君の理性に訴えて、理性人らしくこの学園の中に平和と秩序を維持してゆきたい、外部の力に頼らず、我々自身で理性的に話し合い、理性的に事柄を変えてゆくという方針をあくまでも貫きたいというのが私どもの七年間のいわば経験であり、方針であったわけです。

 私は時々同僚に言うんです。それでも、いよいよそうばかりもしておれない時がくるかも知れない。機動隊を入れなければ死人が出るかも知れないといったようなことになったら、絶対機動隊を入れない、とは私は言えない。けれども、もしそういうことがあって死人の出るのをふせぐことができたということになったら、それはそれでよかったと言えましょうが、私はそこで辞表を出すつもりだ、と言っております。

 どうしても機動隊を入れなければどうしようもないほどに追いつめられたら、機動隊は入れませんとは私は言えません。当局に連絡をして機動隊を入れることがあるかも知れません。しかし、それで私の和光大学の学長としての使命は終わりになるだろう、このように言っております。このことは、やはり諸君一人一人の主体的な理性なしにはできないことなのです。その点は本学の一つの考え方になっております。外部からは若干の批評はあります。しかしそういう批評を受けながら、私どもはじっと自己抑制をしながら諸君と共に話し合ってゆくという方針を曲げないで進んできております。そのことも入学に際してよく理解しておいていただきたいと思うのです。従って諸君がいろいろな問題で違った意見が存在するといった場合には、あくまでも理論闘争、討論ということを辛抱強くやってゆくことによって事柄を処理してゆくといった姿勢を諸君自身の方にも持っていただきたいということを期待するわけです。

 以上のことが、この際私が是非皆さんに話をしておきたかったことでありますが、なおつけ加えて申しますならば、和光大学は非常に小規模な大学であります。従って教師と学生諸君の間にもかなり人間的なつながりができ易い。あまり親切にしないでくれと、私はいいましたが、諸君の方で押しかけてくれば、いくらでも相手になるという姿勢は皆さんが持っていらっしゃる筈です。

 学長室も諸君が押しかけてくるのは大歓迎です。ただ、いろいろな来客がありますから、学長室へ話しに来たい時はあらかじめ連絡をとっておいて下さい。連絡さえとれたらどしどしおいで下さい。学問のお話、生活上のお話、恋愛問題、どんなお話でも結構です。いわば「開かれた大学」としての特色を諸君自身で積極的に生かしていただきたいと思います。

 以上のような雑談的な話の中から諸君が何かを読みとっていただいて、和光大学をよい大学にしてゆく、これは諸君自身のために、和光大学がよい大学になるということは、諸君がよい勉強ができるということですから、和光大学をよい大学にしてゆくという努力を、新入生の諸君とこれからまた一緒にやってゆきたいと思っております。

(昭和四八年四月)