昭和四五年度新入生に対する学長講話

与えられた条件を積極的に生かせ

はじめに

 諸君は和光大学を選んで昨日から本学の学生になられたわけでありますが、なぜ和光大学を諸君が選ばれたか、あるいはもう少しさかのぼって申しますとなぜ大学へ入られたか、ということをもし一人一人に聞いてみたらいろいろな答えが出ると思います。

 べつに和光大学なんかを選ぶつもりはなかったけれどもあれこれ受けてみてうまくいかなかったので最後にここに入ったという諸君もありましょうし、あるいは最初から和光大学一本でねらってきた諸君もあるようですし、べつに大学なんかに入るつもりはなかったけれども、まあ皆んなが入るからおれも入ってみようかと言うわけで入った人もあるかも知れないし、あるいは世の中には、なぜ山へ登るのかと言われて、そこに山があるからという答えがあるそうですけれど、なぜ大学へ入るのかと言われたら諸君の中には、そこに大学があるからというように答える人もあるかも知れません。

 あるいは高等学校を卒業してすぐ職に就く必要もないし、親父もまあ二〜三年遊んでこいというのだが、しかしブラブラして遊んでいるのも格好が悪いから、遊ぶのには大学生という資格で遊ぶのが一番恰好がいいだろうというので入ってみようかと思っている諸君もあるかも知れない。

 あるいはさらに本当に自分で初めからあるやってみたいことがあって、それでみっちり勉強しようという方があるかも知れません。そういう諸君が大多数を占めているだろうと私は期待しておりますけれども、とにかくさまざまな気持を持って大学へ入ってきただろうし、あるいは和光大学を選んだであろうと思います。

 そういういろいろな気持で入ってきている諸君がこの大学で一体何を得ていってくれるであろうかということは、大学の責任者としては一番大きな問題なのです。

和光大学の実験

 最近、大学紛争の中で各大学ともやはり今までの大学のやり方ではまずい、いろいろ変えてみる必要があろうというので大学ごとに改革案が出つつあります。ごく最近の新聞には東京大学の改革案が発表されました。あるいは大阪大学、九州大学、あるいは広島大学というようにあちらこちらの、今のところ主として国立大学ですけれど大学改革の案が出始めております。

 そういうものを少し念入りに見てみると、うちでやっていることを殆んどそのまま真似をしてといいますか、受取って和光方式でやってみようというような考え方が出ている案が相当にあります。

 また最近は、本学にそういう大学から教授の方が見えて、うちのやり方をいろいろ勉強していこうというようにしていらっしゃるところもあります。あれこれ若干の大学改革の参考になるようなことがいくらかは本学で試みられてそれが他の大学の参考にもなりつつあるというのが現状であろうかと思います。それは募集案内等にあれこれ書いてあり諸君も読んでこられたと思いますが、例えば一番問題になっておりますのは一般教育で、大学四年間のうちの初めの二年間は教養部というところに学生をカンヅメにして高等学校の蒸し返えしのような勉強をさせる。

 後期の二年間が初めて専門教育で専門教育の半分位が終ったところでもう就職の運動をしなければならないといったようなことになっている。このような状況については、今申しましたように各大学の改革案はいずれも教養部廃止の方向をとっております。

 一般教育は前期二年で片付けるなどということをしないで四年間を通じてやるべきであろうという案、これはいずれの大学の改革案にも最近出てきておりますけれど本学の場合には創立当初からそういう方針でやってまいりました。

 それなども一つの例でしょう。最初の時期から専門教育をやっていくんだというようなこと、あるいはプロ・ゼミというような比較的少人数のグループを作ってそこでみんなが討論し合ったり、学問のやり方を勉強し合ったりするといったようなチャンスを最初から設けてみようというようなこと、あるいはいわゆる少人数教育という方針でなるべく少人数で教師とみっちり話し合いながら学問ができるような場を用意してあげようとか、少人数教育といいますと、それは結局一人の先生が授業をしたりゼミをしたりする時に何人位の学生がその先生のまわりに同じ教室で勉強しているかということなんですけれど、本学の場合には科目の種類によって、相当多数の学生が一人の教師の講義を聴くといったようなそういう場もあります。

 大学というところは高等学校と違いまして、原則的に(外国語などは必ずしもそうはいきませんが)、一人の教師が同じ講義を二度繰返えすということはしない、高等学校では、例えば社会科の先生は六学級位の学級を受持って同じ講義を六度操り返えすというようなことをしておりますね、大学は原則としてそれをしない。

 外国語はちょっとそうはいきませんが講義の繰り返えしをしないというのが原則です。そうしますと一つの講義が出されており、それを選んで聴講するかしないかは学生の自由だとなるとその講義を聴きたい学生が非常にたくさんいる、ということになればどうしても多人数で聴かざるを得ないということが当然起こってくるわけですね、だから本学でも相当多数の学生が集っている講義もあるようです。

 しかし一方では後期ゼミというのがありますが、後期になってゼミが始まりますとそのゼミに参加しております学生数というのは多いところで一〇人余り、少ないところは二〜三人位、私は後期ゼミを昨年まで二年間いたしましたけれど私のゼミに参加したのは三名です。時々そのうちの一人が欠席すると二人になり、もう一人欠席すると一名になるというわけですね、このように非常に少人数でやっている授業もあるし、三〇人か二〇人でやっているところもあれば一五人でやっているところもある。

 あるいは二〇〇〜三〇〇人でやっているところもあるというようにさまざまです。けれど総体的にいうと本学の先生の数、教師と学生との数の割合は全国的にみても非常に少ない方になっている。例えば東京のある大学などは学生の数を教師の数で割った数、教師一人当り学生数というのが一三〇人にもなっている。このような大学も東京都内にはあります。

 六〇人というのが私学の普通の状況です。本学の場合は二〇教名となっていますから、まあ私学では一応理想的な形になっていますね、その他に非常勤講師の数を見ましても本学の場合には恐らく他の大学のどこよりもはるかに沢山あります。非常勤講師の数を入れますと恐らく本学の場合には先生の数は二〇〇名をこえる数字になるだろうと思います。

 そういうように学生数に比べて教師の数が非常に多くなっている、というようなことも一つの特色であろうと思われます。従って講義には非常なバラエティがある、さまざまな講義が行なわれているという形になっております。それから、高等学校もいろいろですけれど、諸君の学ばれた多くの高等学校ではいわゆるコース制といいまして少し程度の高い勉強をする学生諸君、程度の低い勉強をする学生諸君というように生徒諸君を分けてあり、あるコースに入ってしまうとそのコースに所属している生徒諸君は皆んな同じ勉強をする、授業科目はコースごとにあるいはクラスごとにきちんと決ってしまっていて、生徒の方に選択の自由はほとんどないということになっていますね、中学校さらに小学校になっていきますとこれはもう先生を選ぶ権利も自由もない、受特の先生は校長先生が決めるんだというわけですね、校長先生の決めた受特の先生に受持たれるともうそれっきりそれは運命であって、その先生がいい先生であろうと悪い先生であろうと親切な先生または不親切な先生であろうとその先生の授業を受けるより他に仕様がないということになっている。

 生徒の方に授業を選んだり教師を選んだりする選択の自由が全くないというのが日本の小、中、高等学校の一般的な状況です。大学でもそうなっているところが相当にあります。学科ごとに専攻ごとに教師もきらんと決っており、殆んどすべての学生がその講義を全部聴かなければならないという形になっている大学が相当多数にあります。

 ところが本学の場合はそうはなっていないので比較的多数の教師がさまざまなバラエティに富んだ授業をやっている、店を開いている、学生は自分の主体的な判断で自由な選択によって、その誰れかの教師を選んで勉強をすることができる。というシステムになっている、もちろんこれは完全にそうなっているわけではありません。

 やはり学科というものがあり、あるいは卒業資格というものがありますとどうしてもそれを学ばなければ卒業ができないというように制度上決められているものがあります。

資格にこだわらず勉強を

 例えば諸君の中には卒業して教師になろうと思っている人があるでしょう、教師になるためには一定の科目を修めなければならないように国できめております。例えば社会科の先生になろうと思ったら社会科教育法という授業を聴かなければならない、社会科教育法の中はまたいくつかに分かれておりますけれどその社会科の中の歴史の教育法を教えている先生は一人しかいない、その先生の講義以外に講義はない、となるとその先生の講義を受けるより他に仕様がないというような部分は残っております。

 だから完全に自由ではありませんが多くの場合に諸君はそういう選択の自由をいわば保障されているということがやはり本学の一つの特色になっているだろうと思われます。

 国が資格を必要とすると決めている職業というのはそういう資格を持っている人でなければその職業にはついてはいけないんだということでありまして、例えば医者になりたいというならこれは医者の国家試験を受けなければなりません。

 医学部を卒業した上にさらに医者の国家試験を受けてそれにパスしなければ医者にはなれないということになっている、この理由は簡単ですね、医者として必要な一定の教養を持たないで医者になられてはかないませんからね、間違った薬を注射されたり、おなかの中にハサミを置き忘れたりということが資格を持っていても起こりますからね、国民に利害関係のある職業についてはこれは丁度自動車の運転免許資格があるように一定の資格を要求される。

 そういう資格を得ようとする時にはその資格を得るために必要な訓練を受けたり、知識を獲得せざるを得ないということになっております。それから、大学には卒業という制度があり四年制課程の大学の課程を修了したという修了の証書つまり卒業証書を貰うためには在学中一二四単位という単位数を履修していなければならないというこういう制度があります、これも一種の資格です。

 この資格は学士の称号ということでついておりますが、本学では人文学部に入った諸君がそれを得ようと思うなら文学士の資格を得ることができます。

 経済学部の諸君はそれを得ようと思うなら経済学士の資格を得ることができます。経済学士の資格を得ますと会社に就職します時にやはり経済学士の資格を持たない者とは違った扱いを会社がするという特権がそれにはついている、そういう特権がうらについて資格を得るためには一定のコントロールを受けざるを得ない。資格条件、これは国で定められておりますからこの条件に合った勉強をせざるを得ないということが起こってまいります。

 しかし大学というところは本来はそういう職業的な資格を与えるためにできた施設ではないのでこの点は詳しく話をするには少し時間がかかりますけれど、資格を得るための勉強というのは大学の本来の目的ではなくて、大学は大学の本来の仕事の他に資格を得たいという諸君には資格が得られるようなチャンスを用意しておいてあげるというだけの話であって資格を得させることが大学の目的ではないのです。

 その点はひとつはっきり認識しておいて欲しいのです。従って和光大学は諸君が全部何かの資格をとって、全部が経済学士や文学士の資格をとって、資格を種にして何んらかの社会的特権を身につけて卒業して、その特権を利用してその資格を持たないものよりも有利な職業的地位につこうというそういう諸君のためにあるものではない、そういう諸君がいればそのようなことができるようになってはおりますが、それが大学の本質ではないということを申し上げておきたいと思うのです。

 だから、おれは和光大学に入ったけれどそういう資格はいらないんだ、おれは絵を描いていればいいんだ、そして絵かきで生きていこう、絵かきになるのには資格などいらない、腕一本でいい作品さえかけば絵かきになれる、資格などいらない、という諸君があったらその人は資格をとる必要はありません。

 そういう諸君には資格をお取りなさいとは一言も大学はいいません。むしろ私はそういう諸君の方が大学生らしい諸君だとふだん考えております。諸君は高等学校でやはり八六単位という単位数を強制されます。

 これを採らないと大学に入れない、大学入学資格というのがつかないからやむを得ずとる。面白くもない授業も聴かされたでしょう。こんな授業は面白くないと思っても八六単位取らなくては大学に行けない、そういう資格をうるためにやむをえずとるというわけです。

 だが資格をうるためにやむを得ず単位をとるというのは本来的に言うと大学生らしい大学生ではない、今の世の中で生きるために資格の必要な職業につくためにはどうしてもとらなければなりません、そんなことはおよしなさいとはいいませんが、本来は資格などということにこだわらずに本当に勉強したいことを勉強してみるというのが大学生の本来の姿であろうと私は思っております。

 先ほどの話に立ち戻って申しますと、そういうように本当に資格とかなんとかということを間題にしないでとにかく四年間何か自分を満足させるような、自分の人生を探求するのに役立つようなそういう勉強をしてみたいという諸君のためにはいろいろな角度から比較的良い条件が本学の場合には用意されているということはいえるでしょう。

 例えばそういう諸君ならば資格の問題を超越して自分があの先生にトコトンまで教えて貰いたい、議論をしてみたいという先生をつかまえてその先生とじっくり話し合ってみるというようなチャンスがほしいでしょう。

 そういうチャンスは本学では他の大学に比べれば比較的容易に得易くなっております。私のところに来て話し合いたいというなら、時間の空いている限り学長室においでになればいくらでも話し相手になります。

 他の先生方も皆そうです。多くの私立大学には先生方の研究室というのがありません。先生方の部屋へ行くとそこに一〇人も二〇人もの先生が一緒にいらっしゃる。そういう所では話し合いはできませんね。

 本学の場合には研究室は先生方がおおむね一人一部屋あるいは二人一部屋ということでいらっしゃいます。そこへ訪れて行って先生、話を聞かせて下さいと言って話をするならば先生の都合のつく限り二時間でも三時間でも話し相手になって貰えるでしょう。

 そういうような条件、本気になってやってみようというなら、やってみるのに必要なさまざまな条件というのは割合に良く整っていると申し上げてよいだろうと私は思っております。しかしそれは条件であり、単なる条件に過ぎないのです。その条件を生かして使うか使わないかはもっぱら諸君の側の主体的自由に属しているということです。

 条件は用意してありますが無理に諸君を引っ張るようなことはいたしません。「叩けよ然らば開かれる」という言葉がありますけれど、叩けば開かれるが叩かなければ開かれない、学長室へも来て話をしたいという人があれば私は都合のつく限り相談、話し相手になりたい、しかし、命令して引っ張り出して話をするなどというようなことは絶対いたしません。

 どの先生もそうだと思うのです。さきほども申しましたように本学では比較的少人数で勉強できるようになっているけれど、少人数で勉強ができるようになっていればいい教育ができる、いい学生ができるとは必ずしもいえません、どんなに少人数でじっくり話し合いをするような条件が用意してあっても、それでもそこに出てこない、出席をしないというなら、その条件は少しも生かされないということになりましょう。

 たとえば後期ゼミは五人で先生一人を囲んで五人の学生で話合いができるようになっている、しかし、その五人のうちの一人はさっぱり出席をしないというのではその五人で話合いができるというそういう条件をそのご本人は生かしたことにはなりません。

 あるいは他に比べて比較的バラエティのある沢山の授業科目が並べてある、そして諸君の方にそれを選択する自由がかなり大幅に保障されているというのが本学の状況ですけれどその条件も例えば先輩に聞いたりしてあの先生の試験は簡単だ、あの講義なら簡単に単位がとれるなどという話を聞いて一番安上がりで一番楽に単位がとれるところばかりを選んでまわったというのなら、その条件の持っている意味は諸君自身にとっては少しも生かされない。

 和光大学の特色として和光大学の宣伝文書などに書いてあることはすべて条件なのです。本気になってやっていこうとする人のためには活用し得る比較的良い条件が用意してありますというだけの話であって、その条件を生かして使うか使わないかは全く諸君の自由、諸君の責任にかかっているということを最初からよく理解しておいていただきたいと思うのです。

 私どもの期待は諸君がこの条件を生かしてくれることにあります。その条件が生かして貰えないならばせっかく作った条件も意味がなくなってくるということになるでありましょう。今までの四年間の学生諸君を見ておりますと数字的には出せませんがそれはさまざまです。

 まことによくこの条件を利用している諸君もおるし、まことにまずく利用している諸君もおるというようなことになっております。そういうことでありますのでまずもって、本学のもっている他の大学とはかなりちがった好条件というものを諸君が主体的に自主的に生かしていくという努力をしていただきたいと私は思っております。

 そのためには、オリエンテーションの期間も短かいのですけれど、三〇何名かを単位としたコア・クラスというのがございますし、さきほども申しましたようにそれ以外にもいろいろな先生にも接触するチャンスがありますからできるだけ早い機会に、入学した当初の数週間か一〇ヵ月間に本学のそのような状況をできるだけ充分にまず知ることですね、そしてその上で諸君自身が、オレはこういうふうにしていこう、ということを考える、そのことが一番大事であろうと思うのです。

 くりかえして申しますが多くの、ここに入ってきた諸君の今までの経験、高等学校での勉強の仕方というものと、本学での勉強の仕方というのはその点で非常に違っております。つまり学生をカンヅメにして頭からこれこれのことを勉強しなさいというように押しつけてそれでやっていくという方針ではなくて、諸君の前には非常に広い、非常に多様な選択肢がある、いわゆる選択する枝がある、どの枝に登っていくかということはまったく諸君の自主的な判断に委ねられている、そういう事実の上に立って高等学校時代とは違った姿勢で勉強にとりくんでもらうということが望ましいであろうと私は考えております。

 そういうことをやはり主体的に一年二年やってみてそしてなおかつ本学において続けて学問をしよう、学習をしようという必要性や、あるいは可能性というものを見い出せないという諸君はそれは方針を変えた方がよろしいと思いますね、ぼんやりやっておいて、どうも面白くないとか、どうも骨が折れるとかということで途中で挫折するのではなく少なくとも入ってきた以上はそこの条件をいかにフルに生かすかという努力をしてみて、それでなおかつどうもおれは大学生活に向かないと思ったらあっさりやめた方がいいですね、私は今の世の中で大学というものの持っている価値をあまり高く評価している人間ではございません。

本学が行っている訴訟について

 本学の過去の四年間の経験についても、あるいは歴史についてもこれから諸君の先輩、現在大学に来ている諸君などと接触をしながらだんだん学んでいくチャンスもあろうかと思いますが、この機会にひと言だけ申し上げておきたいことは、いま和光大学は最高裁判所に特別抗告というのをしております。

 最高裁判所にまあ訴えているというわけですかね、昨年の一一月の初めに本学の一、二の学生が学外で行なった行為について本学が警視庁の捜索を受けました。その捜索のやり方がいわば憲法違反であるということを我々は痛切に感じました。

 国家権力の行為に行き過ぎがあるということを痛切に感じましたので、まず手続きとしては東京地方裁判所に準抗告という手続きをして争いました、これは簡単に申しますと本学の主として研究室ですが、先生方の研究室棟というのがありますがその研究室棟に朝早く警視庁が機動隊を連れて押しかけてまいりまして先生方の研究室の扉をぶちこわしてやたらに、のべつまくなしに研先室を荒していった、捜索をして行ったという事件です。

 これは憲法の三十何条かが保障しております住居の自由とかあるいは二三条が保障している学問の自由とかいったものに違反した行為であって、まず第一にはこういう捜索をする時には警察当局が裁判所へ行ってこういうふうに捜索をするから捜索することを許可してくれという許可状の請求をいたします。

 その請求を受けた裁判所が捜索をしてもよろしいという許可を出す、その許可を貰うと警察は大学でも個人の家でも入って捜索することができる、というような手続きになっている。その許可状の出し方がいけないということが第一点、どこにでも入って先生方の研究室のどこそこ構わずひっかさまわせるようなそういう漠然とした許可状を出すことは憲法違反であろうということが第一点、第二点はその許可状を楯にして入ってきた警察官の諸君が大学の研究室の扉をぶちこわして入る鍵は提供してあるにもかかわらず扉をぶちこわして入るというそういう乱暴をするということはこれも憲法違反であろうということ、以上二点で地方裁判所に訴えましたが、これは一部に行き過ぎがあるけれども総体として憲法違反ではない、という判断でいわゆる却下になりました。そこで続いてもう一つの方法は最高裁判所に特別抗告という形で訴えるという方法が残っておりますから、その手続きが行なわれて現在その問題で審議が進行中であります。

 四月に入ってこの問題は国会でもとり上げられまして、参議院の法務委員会で三回にわたって、昨日は三回目でありますがまだ続くらしいです。半日がかりで三回にわたって質疑応答が行なわれております。

 和光大学における捜索事件というので国会で今審議が続いております。それと同時に一方ではこういうふうに研究室をぶちこわしたりして入って来ましたからそれに対する国家賠償法という法律がありますから、その法律に従って損害賠償の訴訟を行なっております。この損害賠償の相手は入ってきた警察官はいわば下っぱの警察官ですから東京都の職員ですね、上の方は国家公務員ですから国家直接になりますが指揮官、指揮をして入ってきたのは東京都の職員ですからそこで訴訟の相手は東京都です、僕の知人の美濃部亮吉君が相手です。

 東京都知事の美濃部亮吉を相手にして損害賠償訴訟を行なうということでこれも手続きが進行しております。いずれも諸君の在学中に結論が出るだろうと思います。

 特別抗告の方も一年半か二年はかかるだろうし、損害賠償の方も一年半位はかかるだろう、非常に長い、息の長い争いでありますが諸君が二年か三年になる頃に結論が出るだろうと思います。勝つか負けるかわかりませんけれども。特別抗告に関しては全国憲法研究会という日本の憲法学者の団体がありまして、そこでもこの四月二三日に和光大学のこの問題について憲法学者が集って研究するというようなはこびになっています、全国の憲法学者やあるいは教育者の方々からも激励を受けております。

 そういう事件、訴訟事件が現に進行中であるということを諸君にお知らせしておこうと思います。このことのために学内には委員会が作ってあります。この問題についてのさまざまな世話や運動のセンターとしてやっていただくことになっています。

 さきほど図書館紹介で紹介されました図書館長の杉山教授がこの方の委員長をしておられます。そういうことでそういういわば最高裁判所あるいは東京都を相手にしてこの事件についての憲法問題で争っているという事実が存在しているということを一応知っておいて貰って何かの機会に諸君の方でもこういう問題を考えていただくというふうにいたしたいと思うのです。

 もし必要があればもっと詳しいデーターを諸君に見てもらって一緒に考えてみるというようにしてもいいだろうと思っております。

教師を利用しよう

 最後に、これはさきほども申し上げたことであり同じことの繰り返えしになりますが、私自身はなるべく諸君に会いたいと思っておりますから、諸君の授業の合い間等で、学長室へ行ってみようかというような気持になったらこれはいつでもいいから、学長室の隣りに秘書室がありますからそこへ連絡をしてください。

 空いているか空いていないかその時々でわかりませんからね、空いていたらいつでも、一人でも二人でもよろしいです、もっとも一〇人にも二〇人にもなるとこれは学長室では一度に話ができませんけれど、なるべく少人数がよろしいですね、友達とさそい合ってフリーにやって来て話をする、真剣な話も結構です、無駄話でも結構です、自由に来て話をして欲しいと思うのです。研究室にいらっしゃる先生方に対しても是非そのようにして欲しいと思います。

 できるだけ教師を利用して教師と膝をつき合わせて話合ってみるということをして欲しいと思うのです。大学の本質とは何かということはあれこれと理屈でいえますけれど、私は結局そういうところだろうと思うのです。

 早い話がいまあなた方は普通の勉強をしようとしているかもしれないが、知識を仕入れようというならその知識を仕入れるための手段というのは、大学以外にいくらもある、書物は洪水といっていい位たくさんあります。ラジオもある、テレビもある。

 教師などいらない、単に知識を、既成の知識を読んで、学んで覚えようとするなら教師はいらない、教師がいらなければ大学もいらない、にもかかわらず大学がここに存在するのに何んらかの意義があるとすればそれはやはり長年勉強したり苦労したりした教師と直接にぶつかって直接に話合って書物では得られない感銘やら印象やらを聞くことができるという点にあるでしょう。そのこと以外に大学の存在意義はないと思うのです。

 そのことを考えて、本学の持っている諸条件をいろいろ掲げましたけれど、改めていえば諸君が教師に接触して教師から何ものかをじかにいわゆる講義の形や本に書いてあるようなことではなしに学びとるようなチャンスが諸君さえその気になればかなり豊富に用意されている本学の特色を諸君が、積極的に生かすというそういう構えで本学の学生生活を過ごして貰うならば、若干の意義があるであろうということを申し上げて私の話を終わります。

(昭和四五年四月)