大学教育の理念

はしがき

 人びとはしばしばヨーロッパの大学、すなわちユニヴァーシティの起源と初期の歴史のうちに、大学のあるべき姿、あるいは理念を求めようとする。私自身もまたしばしば、そのような思考法で大学の理念を語ってきた。

 しかしそのようにして描き出される大学の理念はしばしば歴史の現実を美化し、また歴史の一面のみを誇張することになりかねないし、ヨーロッパのユニヴァーシティの歴史のなかには、その起源が中世社会のただ中でのことであっただけに、もしそれが今日もなお伝承されているとすれば、前近代的な残滓として洗い去られるべき性質のものも少なくない。それではヨーロッパのユニヴァーシティの初期の歴史の中から、われわれが今日のわが国の大学問題を考えるに当って、継承しあるいは再現すべきものは何であり、洗い去るべきものは何であろうか。

1 ユニヴァーシティの前史に見られる大学の理念

 ヨーロッパのユニヴァーシティは、ユニヴァーシティすなわちウニフェルシタスという呼称の出現に即していえば、一ニ世紀の末ごろに生まれたものであるとするのが、ほぼ定説であるが、それ以前、つまりウニフェルシタスという言葉が学者団体または学生団体を示す語として定着する以前に、前史的な歴史があったわけである。

 つまり、ボローニアだのパリだのという後に大学の町として有名になった都市に、何かのきっかけで、多数の学者が居住し、その学者たちが、それぞれ自分の家塾あるいは講筵を開いていた、という状況が現われたのは、それからさらに一世紀近く前の一一〇〇年前後の頃であった。ポローニアではローマ法学者のイルネリウス、パリでは哲学者のアベラルドウスといった評判の高い学者をはじめとして、かなりの数の学者が同じ町に住んでいて、あちこちで講義を開いていたわけである。

 そしてこの学者たちの講義をきこうとする者が、遠い他国からもやって来てその町に下宿し、おかげでその町は学者町、学生町として繁昌するようになる。こうした現象が一二世紀の初めの頃、ボローニア、パリなどで起こっていたのである。これがユニヴァーシティ以前の、前史的状況であった。

 ところでわれわれがヨーロッパのユニヴァーシティの歴史によって、今後の大学のあるべき姿を考えるための示唆を得ようとするとき、まず注目すべきはこのユニヴァーシティ成立以前の前史的段階であろう。ユニヴァーシティの成立を非常に美化して、学者の自治団体としてのユニヴァーシティに、今日の大学自治の原型を求めるという発想法が一般化しているけれども、私はむしろユニヴァーシティの成立の消極面に注目することの必要性を強調したい。そして、むしろユニヴァーシティの成立以前の、混沌とした状況のうちにこそ大学の理念を求めるべきではないかと考えている。

 まず、そこに開講していた学者たちのうちで、とくに著名で評判が高くその町に多数の学生が集まるようになった理由でもあったところの学者たちは、いずれも新しい学問の開拓者であった。ボローニアの町を学者の町として著名にした人として知られているイルネリウスは、当時全く忘れ去られていたローマ法(ユスチニアヌス法典)の発掘者であり、研究者であったが、そのローマ法は古代ローマの末期、ローマの社会が市民社会化した段階で生まれた法思想と法体系であって、一ニ世紀という時代のヨーロッパ、中世的、封建的社会が徐々に崩壊のきざしを示しつつあったヨーロッパにあっては、このローマ市民法を発掘するということ自体が、革新性をもっており、新法学の創造にほかならなかったのである。

 またパリを学者町として著名にした最初の偉大な学者として仰かれているアベラルドウスは、唯名論哲学(ノミナリズム)という、これまた当時の支配的な哲学や神学とはちがった、近代的な哲学の提唱者であった。そのような新しい学問が創造されつつある場所としてボローニアやパリは、当時の全ヨーロッパの青年たちの関心を集め、ドーヴァを渡り、アルプスを越えて学生がそこに集まったのであった。

 新しい学問の創造、探求的エネルギーの醗酵、そのようなことが青年学生をそこに集め、やがてそこにユニヴァーシティという名の団体が生まれるに至る始源の事情であった。この事実は、大学の理念として永久に保持されるべきことではなかろうか。学問の自由とはこのような新しい、開拓的な研究が権力によって圧迫されるようになったときに、その圧迫に抗するために打ち出された観念であるが、今日ではしばしば、古ほけた学説を後生大事に祖述することが、学問の自由の美名の下に固執されたり、あるいは学問の自由の名によって、学問をしない自由、研究をしない自由が保障されたりしている例が少なくないけれども、そしてそのような大学教師たちの古さや怠慢さが、学生の不満や反発を買っているのだが、そのような大学は大学の名に価しないことはいうまでもない。

 つぎにこの時代の学生たちはめいめいが、自分の学びたい教師を選んでその講義をきいたのであって、したがって授業料はその教師に払ったわけで、今日のように、多数の教師を擁し、広大な建物を持つ、学校的な施設があったわけではない。ただ同じ町に多数の教師が住んでいて、めいめい、学生を集めて講義をしているというだけであった。その誰かれの講義を、学生たちはききたいだけきいたわけである。また教師の団体(組合)もできていなかったし、制度らしいものは皆無であった。学位の制度もなければ、入学だの卒業だのという制度もなかった。このような点でこの状況は今日の大学とはなはだしく異なるものであった。

 今日の大学は国家や学校法人の営造物(施設)であり、教師はその被雇傭人として、それから俸給を与えられており、したがって学生は授業料を自分が教えをうける教師にではなくて、設立者である国や法人に納入する。学生は資格を得るために入学し、そして卒業する。彼らはそのためには一定の年限在学し、一定の科目を履修することを強制される。教師は学生にとって魅力ある講義をしようとすまいと、いずれにしても終身雇傭制で身分と給料を保証される。学生は欲しい資格をとるためには、定められ、あてがわれた教師の講義を受講し、その試験を受けなければならない。

 こうして教師と学生をつなぐ群は、学問そのもの、教師のもつ学者としての魅力ではなくて、単位認定者、試験官としての教師と単位取得志願者との関係に堕する。こうして教師は学問そのもののもつ内面的権威の体現者としてではなしに、単位認定権を持つ権力者としてしか、学生の眼に映じなくなる。それが今日の大学の重要な欠陥といえないであろうか。そのように考えるとき、このユニヴァーシティ以前の混沌とした状況のうちにこそ、大学の理念がひそんでいるといい得ないであろうか。

2 ユニヴァーシティの成立と講座制度

 ユニヴァーシティすなわち教師ギルドの成立は、以上に述べたことを念額に置くなら、大学史上一つの大きな転機であり、ヨーロッパにおける学問の教授と学習の歴史における堕落の第一歩であった、といってもいいものであった。 ユニヴァーシティには教師のユニヴァーシティと学生のユニヴァーシティとの二つがあったことが歴史上の事実として知られているが、後世の大学史の上で主役を演ずるのは、教師のユニヴァーシティであるから、ここでも教師のユニヴァーシティについて述べることにする。

 教師のユニヴァーシティとは、その成立以前にバラバラに一つの町に住んでいた高等学術の教師が、一つのギルドを作ったものであるから、教師ギルドといいかえてもいい。そのような教師ギルドが生まれるに至った動機は、工匠ギルドと全く同じで、自分たちの教えた生徒の中にはやがて同じ町で開講する者も出てくるが、それがあまりたくさんになると、その方に学生をさらってゆかれて、自分たちの授業料収入が減ってくる。そこでそれを防ぐために教師たちがギルドを作り、このギルドによって開講資格試験を行い、それにパスした者にだけ、その町での開講権を与えるという制度を作ったものであった。

 この開講資格がすなわら後の学位であって、マスター・オブ・アーツは学芸(今日の一般教育)の教師資格であり、ドクター・オブ・セオロジーは神学の教師の資格であった。この資格制度が生まれるのと表裏の関係をなして、教授と学習における親方制度――徒弟制度が固定していった。神学や法学の開講権を得るのにはある教師に身ぐるみ弟子入りして、その教師のお気に入りの門弟にならなければ、ギルドの行う資格試験で強力な支持者を持たないことになるので、合格はむつかしい。したがってある教師を親方としてその許に徒弟奉公的に入門し、そして年季を入れなければ、目的に達せられないこうして一人の、教師ギルドの加盟員である教師は「親方」になり、その手許に親方の手伝いをして無給で、あるいはわずかばかりの、親方から支給される手当てをうけつつ、親方の講義の助手や代講をつとめる親方志望者が生ずることになる。

 これらの人たちが、後の助教授、講師、助手である。だから、彼らは全く親方である教師(教授)の子分であり、門下であって、親方の絶対的権力の下に従属していた存在たったわけである。そしてこれらの人たちの下に、さらに徒弟としての学生がいるわけである。日本の幕末に生まれた漢学塾や洋学塾にもそのような趣きはあったが、ギルドがあり、資格試験があっただけに、この親方制度の規制は日本の場合よりもはるかにきびしかったといっていい。そしてこれが後の講座制の原型であることはいうまでもない。

 古い伝統を誇る大学には、今日でも講座制度が厳然として存在しているが、この講座制度にはもちろんそれなりの長所もある。このような親方――徒弟制度が長い間芸人や職人を養成する民間のシステムであり、そのシステムの下で、たとえば歌舞伎とか、何々流の生花とか、刀工、陶芸、等々のすぐれた技芸の発達や保存がなされて来たことは否定しがたい。それと同じように学問もまたそのようなシステムの下で、一人の親方である学者に入門して長年にわたって門弟的修業をすることによって初めて一人前の学者、専門家になることができる、という一面の性質を持っていることは、今日といえども否定しがたいかも知れない。少なくとも、今日第一線で働いている学者や、長老学者たちは、ほとんど皆、このような親方制度的な講座制度の下で、徒弟修業を積んで来た人たちであるといっていいであろう。

 だが、この講座制の欠陥もまたおおいがたいものがある。講座制はその原型が親方制度であったことによって分るように、それぞれの講座が独立の、親方一家であるのだから、元来、他の講座から何の制約も受けない性質のものであった。そしてその講座に所属する助教授以下の職員は、親方である教師の子分であり、子飼いの弟子であるのだから、誰を助教授に採用するかは、全く教授自身の判断と選択に属することがらであって、他講座の介入を許さない性質のものであった。それは家元一家であった。

 したがって講座の長である教授のポストの後継者にはしばしば自分の娘のむこが選ばれて、閨閥人事とさえなる。発生の歴史からいえばそうなっても何の不思議もないのが講座というものの性格だったのである。今日の入学制度では大学教師の選考権は学部教授会にあるということになっているけれども、それは名目上、形式上のことであって、実際はある講座の教授の後任者には先任者のおめがねにかなった門弟が選ばれるというのが通例であろう。それでこそ講座はその独自の学風の伝統を長く保ちつづけることができるだろうし、そうなるのが当然で、学問の発達に貢献するゆえんでもあると考えられて来たのである。

 しかしこのような講座の閉鎖性は、一方では学問の発達を阻害する壁として、他力では学生や青年研究者の自由や自主性を抑圧する機構として、強く批判されるようになって来ている。

 今日の「大学自治」なるものは、講座制大学ではその基本の自治単位を講座自治に置いている。学部教授会も全学評議会も、この講座自治には実質上介入することはできない仕組みになっている。そしてその講座自治とは、要するに講座長である教授の専制政治にほかならない。大学というところはこのような小専制君主のギルドにほかならないのである。

 このような閉鎖的小王国である講座をそのまま温存していては、新しい境界領域的学問分野が次々と出現し、また諸分野にまたがる共同研究を必要とする研究課題が続出しつつある現代の学問研究の趨勢に順応し得ないであろうし、またこのような封建社会的、親分子分的人間関係や講座内専制主義が、若い研究者や学生の民主主義的要求にこたえ得ないであろうことも、今や自明である。それ故に今や講座制度は根本的に改廃されるべき運命にあるといっていいであろう。

 ユニヴァーシティというものは、親方ギルドとして発生したものであるから、それは親方の利益を共同して守ることを目的とした。そこで学者である親方の誰かが、教会権力や国家権力ににらまれて追放されたり、開講を禁止されたりするような危険が起こると、このギルドが共同して防衛してくれるということが起こってきて、このギルドすなわちユニヴァーシティは学問の自由を守るとりでとしての役目をも演ずるようになった。そのような役割をもつものとしての教師ギルド、すなわらユニヴァーシティや学部教授会の果たした功績は決して小さくはない。とくに思想弾圧の対象になりがちの、人文、社会系学部においてそうである。

 しかしその場合にも、お前の講座を守ってやる代りにおれの講座も守ってくれ、というギブ・アンド・テークの契約としての相互防衛が行われているにすぎないのが現状である。教師ギルドが生まれる以前には、教師はそのような共同防衛組織を持たなかったから、簡単に弾圧された。パリのアベラルドウスなどそのよい例である。それに比べればユニヴァーシティや教授会が、そうした教師を守ってきたことはたしかである。オクスフォードで中世末期にジョン・ウイクリフやその門弟たちを、容易には権力が弾圧し得なかったのは、オクスフォードの教師ギルドすなわちユニヴァーシティの力に負うものであった。

 しかし一方でこの共同防衛は、学問の講座間の相互交流や共同という実質なしに、したがって守るべき学問の内容そのものについての、共通の理解と共同の内面的意志を欠いた、形式的な共同防衛に終ることがしばしばであった。明治中期、日露戦争の前に対露即時開戦論をぶって政府の忌諱にふれ、休職処分に処せられた戸水寛人以下の七教授を東大法学部が結束して守ろうとした行動なども、その例であるし、大正二年に沢柳政太郎が京都大学総長になって、老朽無能と目される教授数名を辞職させたことに対する、京大文学部教授会の反対運動もそれに類する趣のものであった。学部教授会はその内部に学問の交流も共同も行われてはいないし、学問研究者としての共同体意識も存在しないで、ただ相互の利益を共同して守るだけの仕組みにほかならなかった。そしてそうなる原因もまた講座の独立専制にあったというべきである。

 このような講座制のもつ欠陥を是正するためには、基本的に講座制度そのものを廃絶するよりほかはあるまい。講座制を廃絶するということはギルド制的な親方制度を放棄するということであり、講座の長すなわち教授の下に従属者として召し抱えられていた助教授、講師をその講座から解放することである。しかも彼らを講座の専制小王国から解放するということは、教授、助教授、講師というような身分制的職階制が無意味なものになるということである。彼らが教授と同じ独立の研究者、独立の教師になることを意味する。したがってそうなればそのような職階制的区別は不必要となる。職名は教授でも教員でも何でもよいが、みんなが同じ職名の、独立の教師になればそれでいいわけである。

 現に小学校や中等学校ではそうなっていて、みんな一人前の教諭である。大学の場合、研究に必要な純然たる助手やオペレーターといった職種の補助者は、それぞれの教師に一人ないし二人専属させることが必要となろうが、これらの職務および事務職員以外の、研究職、教育職にある者はすべて平等、独立の存在であるべきであって、そうした条件がみたされた上で、そこにはじめて各人の自由意志による研究交流、研究共同も生まれるというものであろうし、そうした平等と相互独立の基底の上で、親方制度的、閉鎖的でない、開かれた師弟関係、指導―被指導関係も新たに生まれてくるにちがいない。

3 学生の参加と団体理輪

 今日、大学紛争の中から“学生参加”の問題が浮び上って話題となっているが、この問題は大学史の上からはどう考えたらいいものであろうか。

 ユニヴァーシティは初めは教師のユニヴァーシティと、学生のユニヴァーシティと並列的に生まれたものであった。教師には教師として共同して守るべき利益があり、学生にはまたそれとは別の、共同して守るべき利益があったのだから、それは当然のことである。今日も大学の教職員組合と学生自治会とが別個に存在するのと同じである。この両者はしはしば利害が相反する立場にある。授業料額の問題は中でもそうであることは昔も今も変りがない。だからボローニアあたりではこの問題をめぐって教師のユニヴァーシティと学生のユニヴァーシティとが対立し、渡り合い、団交をやって、授業料額を協定したらしい。

 ところがこの教師団と学生団との関係には、一、二の変遷があった。教師の一部が弾圧をうけたときには学生も教師といっしょにこれに抵抗し、そこに一時的ではあっても教師学生団といっていい統一団体が生まれた。教師と学生がいっしょになって学問の自由を守るという形である。それは今日の共闘といった形のものにすぎなかったが、そこからユニヴァーシティは教師と学生の共同体、教師と学生を構成員とする団体であるべきだという理念が生まれた。一九世紀の初めに生まれたベルリン大学は、その学則の中でその趣旨をうたっている。しかしベルリン大学の場合には、これは一つの観念に止まっていて、実際の大学運営は教師の自治組織にゆだねられていた。

 ここまでのことは、ユニヴァーシティがそれ自体独立の教師ギルド、あるいは教師学生ギルドとしての法人格をもつ、団体であるという立て前の上でのことである。この立て前に立って、ユニヴァーシティの管理運営を民主化するということになれば、学生はすでに成人に近い者や成人であるものもいるし、しかも二つのギルドが一つに合併したのだという解釈を可能にする歴史的背景もあるのだから、教師と学生とが、たとえば同数委員会方式で、フィフティ、フィフティで共同管理を行うということも十分に考え得ることである。フランスのような国は別として、このような大学論上団体理論といわれているものの実体がかなり強く残っている国で比較的早くから“参加”のシステムが採用されているのは理由のないことではない。

 しかし日本の場合は事情がちがう。日本はナポレオン帝国時代以後のフランスと同様に、大学がはじめから国家の施設(営造物)として設立された。大学は国家がその必要上設ける施設であり、あるいは民衆の利便に供する目的で作った施設であって、その点で道路、港湾施設、図書館と異ならない。したがってこのような国立大学では、教師はこの施設の一部(人的施設として国家から雇傭された被使用人)であり、学生はこの施設を、使用料を払って利用している施設利用者にほかならない。

 このようなものとして大学を見る見方を、施設理論(営造物理論)というのであるが、この立場に立てば大学教師はたとえ教授会を構成して、自治権らしいものを認められていても、しょせんそれは設置者であり管理権者である国(その政府)の管理行政のあり方に対して、実務担当者として若干の発言権を許容されているのにすぎない。決定権は設置者、管理者にリザーヴされているのである。また学生の参加もこの場合には、こと、基本的な管理権に関するかぎり、それに学生が参加することは不合理とされ、せいぜい使用料を払ってこの施設を利用している利用者団体として、経営者に向って組織的に苦情や注文をつけることを容認される程度に止まるであろう。フランスの今度の大学基本法では、大学評議会への学生の参加がかなり大幅に認められているけれども、大学評議会は最終的な決定権をもつ管理機関ではないのだから、話は別である。

 そして日本の場合には私立大学はまったくの個人の私的施設であるか、あるいは設立者によって管理を委任されたボード・オブ・トラスティーが管理している施設であって、教師はその被雇傭人、学生はその有料利用者とされているから、国立の場合と何らのちがいもない。日本には団体理論が、そのままあてはまるような成り立ちと現制度をもっている大学は皆無であるといっていいのだから、“参加”もまた団体理論の下で考えられる参加とはなり得ないであろう。

 しかしながら私学の場合についていえば実質上は創立者が投入した財産などは今やゼロになっており、財源の大部分は学生納付金であるというケースが多くなっている。したがって設立者・維持者はその時々の父兄または学生自身であるという趣になっている場合が多い。一方団体理論によれば大学は教師の、あるいは教師と学生の、私法人的団体であり、この団体の活動に必要な資金を提供する人たちは、政府であろうと国王であろうと、富豪であろうと、市政府であろうと、すべてこの団体の後援者、スポンサー、パトロンにすぎないのであって、この団体の設立者とか、管理者とかいうものではない。ユニヴァーシティという私法人は、教師の、あるいは教師と学生の団体として、これらのいろいろの後援者、パトロンの援助をうけながら、独立の法人格をもつ存在にほかならないのである。イギリスやドイツなどの諸大学には、このような団体理論を地でいっているという趣きを、なお保持している大学が少なくない。

 日本の大学は、果たしてこのような団体理論が当てはまるような大学にはなり得ないものであろうか、それはきわめて困難なことにちがいないが、日本の大学がこの困難な道を歩いて、まがりなりにも団体理論的な匂いのするものになるまでは、日本の大学に静かな平和の日は来ないかも知れない。

(昭和四四年一月「医学のあゆみ」)