大学における開発教育

 “人間形成”ということばが近頃はよく使われているが、このことばに何かしら抵抗を感ずる人はないだろうか。形成ということばは型成というように書かれることもあるし、そのことばに似たことばに塑型というのもあり、陶冶というのもある。それらはちょうど、とろとろに溶けた鉄の液を鋳型の中に流しこんで、鋳型のとおりの形をした鉄製品を作り出すような営みを示すことばである。鉄の液はあてはめる型次第でどんな形にでも自由に形成することができるものである。溶けた鉄は定形をもたない単なる素材であって、型次第でどんな形にでもすることができるのである。粘士もそうだし、およそ素材といわれるものはすべてそうで、設計の如何によって、作ろうとする人の思いのままの形に作り上げることができるのである。

 形成とはもともとそんな意味のことばである。だから“人間形成”ということばには、人間もまた幼い時、若い時は鉄の液のような素材であって、どんな型の人間にでも、おとなの思いどおりに形成することができるものだ、という考え方がひそんでいるように思われる。

 だからそんなことばを使われると、人間というものは果たしてそんな存在だろうかという疑問が湧くのである。人間というものはそんな鉄や粘土のようなものとは違うのではないかという気がするのである。

形成作用による自動化

 しかし人間は実は大昔から今日まで、もっぱら形成作用ばかり受けてきたといっていい。それが事実である。

 人間には、動物にはほとんどみられない、時代や民族や環境によって、千差万別な言語や習慣や行動様式や礼儀作法などをもっている。そうしたものは一般に文化様式といっていいものであろうが、それは土地により、時代により、民族により、家によって違っている。そしてそのようなものは、大部分、後天的なものと考えられている。

 つまりそれらは、人間が生まれ、育っていく際の周囲の条件、環境の状況によって違ってくるものである。したがって親や教師や権力者が人為的にその条件を変えれば、それに従って変わっていく性質のものである。イデオロギーなどと言われるものもそのようなものである。そしてその点では、人間は動植物よりもむしろ粘士や鉄に似ているとさえ言うことができる。

 もっとも動物でも高等動物には同じ面があって、調教が可能であるが、しかし人間はその点では動植物よりもむしろ素材的な凝生物に似た性質があると言っていいかもしれない。そして“人間形成”とか、“人間陶冶”とか言われてきたのは、むしろ人間のこのような精神的側面の形成可能性、陶冶可能性に着目して言われてきたものである。その意味ではそうした言葉にも理由があり、必ずしも誤りだとは言えないかも知れない。

 そして事実、親や教師や政治権力者などは、むかしから、そのような人間形成や人間陶冶をさかんにやってきたし、今日もそれをやっているのであるし、また、ある点では人間はこのような形成や陶冶を受けて、ある型の行動が自動的にできるようになっていないと生きていけない存在なのである。

 私たちが、日常自由に、何の抵抗もためらいもなく、ペラペラしゃべっている日本語というものは、このような形成作用あるいは陶冶作用の積み重ねによってでき上がった能力である。人に会ったら頭を下げてあいさつするという習慣や道を歩く時には右側を歩くという習慣も、そうして形成されたものである。だから形成のための型が遵えは、日本語でなしに英語、フランス謡をペラペラしゃべるようになり、頭を下げるかわりに右手を出して握手を求めるようになり、右側でなしに左側を歩くようになる。

 そうした形成は、もっと複雑で知的、思想的な内容を含んでいる精神現象の面でも行なわれる。我々おとなは、自分の精神の底の方に、自分ではどうしようもないような、あるタイプのものの考え方や感じ力が、一つの型としてでき上がってしまっていることを感じないだろうか。お寺に行くとおさい銭をあげておがみたくなったり、日の丸の旗を見るといいなあと思ったり、というようなことから始まって、総じて、あるいは封建的と呼ばれ、あるいはまた、それとは別のタイプとして、明治的といわれたりするような思想と感情のタイプが、身にしみついているわけである。そうした広い意味でイデオロギーと呼んでいいものは、ほとんどまったく形成や陶冶の結果、定着したものであると言っていい。

 自分の国を愛し、自分の属する民族を愛し、他国、他民族に激しい敵がい心を感ずるような心情もまた、そのような形成作用の結果であって、けっして先天的なものではない。政治家や権力者たちは原始民族の時代このかた、そのような部族的、民族的、国民的な心情を“形成”するために、いろいろの方法を使って努力してきたものである。そして今日においても彼らは、それぞれの立場からの、民衆の心情やイデオロギーの形成に大わらわである。

 それだけではない。形成や陶治と呼んでいい働きかけは、学校でも盛んに行なわれている。学校は知識の教授を主要な目的とするものとむかしから考えられてきたが、そう考えるかぎり学校もまた形成と陶冶の機関である。現に学校では、既成の知識体系が、ゆるがぬもの、疑うべからざるものとして教えこまれ、記憶させられている。そして必要な時にはいつでも自動的に正しい答が出るように訓練が行なわれている。受験勉強などと言われるものはその典型的なものであるが、そうでなくても、今日の学校教育はおおむね、そのような、一定の知識の形成を行なう機関になっていると言っていい。

型破りの行動ができる能力

 このようにみてくると、今日、人間は社会において、学校において、もっぱらあるタイプの精神的自動機械になるように形成されており、形成ばかりを受けていると言っていいかもしれない。人間の精神や思想は“育成”されるものではなくて、“形成”されるものであると誰もが考えて、そうしているようにみえる。

 だが、人間とは果たしてそんな存在だけに尽きるものだろうか。早い話が近頃は産業界でも、あまり物知りでなくてもいいから創造性に富んだ人物が欲しい、というようなことを考えている向きが出てきているようであるが、創造性というようなものは、しつけによっても、宣伝によっても、また知識の教授によっても獲得されるものではない。それはあるタイプの行動様式とか、あるタイプのイデオロギー(観念形態)とか、あるタイプの知識とかいったものではない。

 それは精神のある固定した型や形やタイプではなくて、いったんそんな型にはめられた人間が、その型から抜け出したり、その型とは違った格好や考え方をしたり、みんな型どおりのやり方でマンネリズムに陥っている時に、型破りのやり方をして人を驚かしたりするような、そんな行動のできる能力である。そのような能力は、ある型の行動様式やイデオロギーや知識のように、型はめしたり、宜伝で誘導したり、教授で教え込んだりするわけにはいかないもののようである。

 カントは哲学を教えるのでなしに、哲学することを教えるべきだ、と言ったというけれども、この哲学すること、つまり哲学における創造性は、果たして教えられるものだろうか。「教える」という働きかけの仕方で、得られるものだろうか。どうもそうではないらしい。どうもそれは一般に“形成”的な働きかけでは得られないもののように思われる。――そのように考えて、先人はそこに、“育成”という言葉に近くて、しかし、いくらか趣きの違った一つの新しい概念をもち出すようになった。

 それが“開発”という言葉である。開発に当たる英語はディべロップメントである。ディベロップはエンベロップ(封をする、包みこむ)の反対で封をされているものを開封すること、包みこまれているものを、包みをあけて外にとり出すことである。ドイツ語のエントビッケルングもほぼ同じ意味で、ぐるぐる巻きにして包んであるのを解きほぐして中にあるものをとり出すことである。

 先人は、創造力というものは、そのようにして包みこまれ、かくれ、潜在しているものであって、包みをほどいてやれば輝き出すものであり、親や教育者のいちばん大切な仕事は、何かを教えこんだり、形成したりすることではなくて、この包まれて、かくれている創造力の包みをほぐしてやることだ、というように考えたのである。これも一つの比喩であり、説明であるにすぎないので、事の真相を的確にとらえているとはいえないかもしれない。

 第一包みこまれているものなら、いっぺん開いてやればそれで、とたんにその人が潜在能力としてもっているだけの創造力がフルに顕現し、輝き出し、作動するはずだが、そうはいかないのである。たしかにパッと輝き出すという趣きはあるけれども、しかし創造力もまた次第に強くなり、発達していくものとみていいようである。だから“開発”という、地下資源の開発を連想させるような言葉でこの事象を説明することは必ずしも適切ではないけれども、少なくとも創造性というものは、“形成”的方法とはまったく違った、別個の方法によるのでなければ得られるものではないということを説明するためには、開発という概念は有効である。

 それでは創造性を開発するのにはどうしたらいいか、ということになるが、その方法の基本は、人間を、既成の、そして自分が“形成”によって身につけている行動様式やイデオロギーや知識や技能では片がつかず、解決のできないような新しい状況の中に立たせること、そのような場面に相手を誘い入れ、招き入れることだ、と考えられている。

 もう五〇年も前に、ケーラーというドイツの心理学者は、チンパンジーを使って一つの実験を行なった。それは有名な実験で広く知られているが、チンパンジーを空腹状態にしておいて、大きなおりの中に追いこむ。おりの中央に天井から彼の大好きなバナナが吊るしてあるが、高くて飛びつけない。そうしておいて、そのおりの片すみに、ある時は一本の棒、ある時は一本だけでは短くてとどかない短い棒をニ本(つなげるようになっている)、ある時はあき箱というように、道具として使える品物を置いておく。それでどうするかと見ていると、へたなやり方でやってみて失敗し、困ったあげく、棒や箱を道具に使ってバナナを取ることを考えだすのである。

 人間は道具を発明し、道具を使うという点で他の動物と違うといわれているが、チンパンジーでも、このような場面に立たされると、道具を発明する能力を発揮するものであることがわかったわけである。そしてこのチンパンジー実験の方法が、創造力開発の基本原理だとされているのである。

 創造力とか発明力とかいうものは、生まれつきの天才だけにあるもので、凡人大衆には像のないものだと考えられてきたけれども、チンパンジーだって、導き方次第では創造力を発揮できるものだということがわかってみれば、人間なら幼児にだって、それから精神薄弱児にだって、それは可能性としてはひそみ、かくれ、潜在しているのであって、開発の方法さえ適切であれば、輝き出るものであると考えていいのではなかろうか。

開発主義教育の系譜

 このような開発主義の教育思想はけっして新しいものではなく、西洋では古代のギリシャ時代のことは別としても、特に一八世紀以来、ルソーやペスタロッチやフレーベルによって熱心に説かれてきたものである。そしてわが国では明治の初めに、アメリカ経由でペスタロッチの教育説が紹介された際に、すでに“開発教育”という名を冠して、広く全国の教育界に喧伝された。

 “開発”ということばは近年になって地下資源の開発とか、海洋資源の開発とか、さらには観光資源の開発とかというように盛んに使われるようになり、はては人的資源の開発だの人材開発だの、あるいは社会開発だのというようなことばもとび出すようになったけれども、それが英語のデベロープメントの訳語として用いられたのは、たぶん明治初年にペスタロッチの教育思想を紹介するに当たって用いられたのが最初の用例ではないかと、私は考えている。

 明治の初期に日本の教育界に革命的な新風をまき起こした西洋の教育思想は、まさしくこの、ペスタロッチの“開発教育”だったのである。

 ペスタロッチの開発教育はまったく教育の方法の上での主張のように受け取られていて、開発的方法か注入的方法か、というように問われ、同じ内容を教え、同じ教育目的を果たすのに開発と注入という二つの方法があって、開発の方がいいんだ、いや注入だというように論じられてきたけれども、これは元来そうではなくて、開発教育という時には、教育の目的は人間に潜在している創造性や科学的精神、芸術性といったものを開発して、それを輝き出させることにあるのであって、単に知識を教えて知らせることにあるのではないということを主張するのが眼目である。

 しかしこの眼目は忘れられて、人々は開発教育をもっぱら形成としての知識の教授の一方法としてとらえた。だからそれは、自発主義とか、自学自習主義とかと同じものだと解されるようになり、それは結構なことだが、しかしはなはだ非能率で、そんなことをしていたら、時間が足りなくなって、教えなければならない教材が残ってしまうことになる、とか、それでは入学試験には間に合わない、というような苦情や非難を浴びることになり、間もなく既定の知識をがっちりと順序正しく、段階的に教える仕組みを提唱したへルバルト派の五段階教授法といったものに取ってかわられたのである。

 その後大正デモクラシーの時期にも、今度は開発教育ということばは使わなかったけれども、同じ教育観が復活したが、それも昭和に入るとファシズムの嵐と、進学、競争の波によって押しつぶされてしまった。ファシズムは皇国精神というイデオロギーの“形成”に忙しかったし、進学競争の激化は子供たちを否応なしに、注入的方法による定型的な知識の形成に追いやった。

 そして太平洋戦争が終わったあとの解放期に、我々は三度開発教育の思想の復活を迎えたわけであるが、今度もあまり長くは続かなかった。今度もまた、一方では政府の逆コース的なイデオロギー形成政策のために、他方では再燃した進学競争のために、開発教育はたちまち影のうすいものにたっていった。

 その後近年になって、技術革新競争の立場から、したがって企業の側から創造性の開発ということが叫ばれだし、アメリカあたりの大企業や、あるいは国防教育法による政府資金によって行なわれている、創造性開発の研究や実際が紹介されたりしているが、学校はそんなことは馬耳東風で、あいかわらず体制的イデオロギーと定型的知識の“形成”に奔走させられている。それが今日の日本の学校の実態である。

大学大衆化の危機

 さて、大学だが、日本は戦後の学制改革で、在来の専門学校や高等学校をみんな大学にしてしまい、世界未曽有の大学国にたってしまった。そしてそこに、前述のような形成教育を一二年間も受け続けて、相当疲れ切って、そしてあきあきしている若者たちが、わんさと押しかけて来る。もう形成的な知識の詰め込みにはうんざりしているはずだし、事実彼らもそう言っているにもかかわらず、どうしてさらに四年間もそれを続けようとして押しかけてくるのか、不思議といえば不思議である。

 一つには学歴主義というものがあって、大学出でないとうだつが上がらないという慣習が依然として強く残っていること、いま一つは高度成長で中産階級がふくれ上がって、高校を出たあとも、なお四年やそこらは遊ばせておいてもいいという階層がぐんと多くなり、そのせがれやむすめたちが、大学をカッコいいひまつぷしの場として利用しようとしていること、それに受け入れ側も営利的な私学が多くて、いくらでも受け入れること、といった諸事情のために、この勢いは抗しがたいものになっている。

 だからこうして大学に集まってくる若者たちの多くは、元来形成的、詰め込み的な教育にはうんざりしている連中であるが、大学に入るよりほかに行くところはないし、働くのはいやだし、というわけで大学に来ているか、いい会社に就職するためにはそうするよりほかはないというので大学に来ているかである。そうした学生を相手にして大学は高等学校と同じような、それよりちょっとばかり程度が高くなっただけの詰め込み教育、知識の“形成”を、しかもマスプロ的やりかたでひき続きやっている。学生はそんなものにはあきあきしているのだが、だからといって、大学をやめたら始末が悪いので、大学の授業の方は適当にサボったり、お茶をにごしたりして、もっと勇ましいことやもっと楽しいほかのことに夢中になったりして、毎日の生きがいを求めている。

 明治時代の前半には、日本には大学といえば東京帝国大学一つしかなく、その東大の毎年の入学者は初めの頃は全部で一〇〇人内外、明治の終わりにも一、〇〇〇人内外であった。だからその頃の大学生はそれこそえり抜きのエリートばかりで、学問の志に燃えたり、立身出世の志に燃えたった青年ばかりであったわけだが、いまの大学は、その頃の中学校よりももっと大衆的な学校になっている。

 明治一九年の中学校令では、地方費負担、つまり府・県立の中学校は各府県一校に限ると定めたから、明治二〇年には全国で二〇校、生徒数は各学年二、〇〇〇、合計一方人しかいなかった。明治の終わりになって中学校数は公・私立合わせて三〇〇校、高等女学校が二〇〇校、計五〇〇校になり、男女一学年の生徒数は四万人位になったが、この数字は今日の大学よりもはるかに低い。

 今日わが国には、四年制大学だけで三〇〇校もあり、短大を加えれば八〇〇校、毎年の入学者は三〇万人に近い。これは明治の終わり頃の中学、女学校の入学者の八倍という数字である。だから人口の増加を計算に入れても、日本の大学は明治の末の中学、女学校より五倍位、大衆化されているわけである。明治の末には中学や女学校にいけない者は高等小学校に進んだが、その数が毎学年二七、八万人だったから、いまの大学と短大を合わせた学生数は、その頃の中学、女学校と高等小学校を合わせた数位になっているのである。半世紀前にはせいぜい高等小学校ですましていた者がいまはみんな大学に入っているわけである。

大学・学生数の増加状況
  大学 学生数(人)
明治13年 2,006
明治33年 3,240
大正9年 16 21,915
昭和10年 45 71,607
昭和28年 226 446,927
昭和42年 369 1,160,425

文部省・「学校基本調査教告書」,「学制90年」より

教育の本質に立ち戻れ

 そのように大衆化してしまったいまの大学生に、半世紀前の選りぬきの俊秀そろいで小ぢんまりとやっていた大学の学生と同じような気構えと志操、学問への情熱や立身出世の悲願などを期待するのは、まるで見当違いと言っていいだろう。むかしのような学者がそんなにたくさんできては第一困った事になるだろう。そんな期待をもっていまの学生に臨んでみて、それでがっかりして、いまの大学生はまったく仕方がない、とこぼしている大学教師が多いけれども、それはこほす方が間違っているというよりほかはない。

 だからといって、この形成主義的な知識の注入教育に倦み疲れて、旧態依然たる大学の教育に魅力を感じないにもかかわらず、いわば教育外的な理由で大学にとにかく在学しているという大量の若者諸君を、このままほっておいていいものだろうか。この、たいくつして、大学のほか、教育と学習の外の世界にパンチとスリルのきいた生活を求めて、そこに欝積したエネルギーのはけ場を求めるか、でなければまったく無気力に、ただふわふわと、その日その日をあれこれの移り気な興味のままに過ごしている若者たちを、そのままほっておいていいものであろうか。

 この若者たちを賦活し、生きがいをとり戻させることは、大学だけでやれることではない。原因は大学そのものの力ではどうしようもない、もっと基本的な所にひそんでいると思われるから、大学がどうもがいても、どうにもならないことかもしれない。しかし大学は、現にこのような若者たちの住んでいる場であり、大学の教師はこの若者たちの教師である。そうであるなら、いまの大学の教師はむかしの大学へのノスタルジアに耽っていないで、いまのこの大衆的な学生にマッチした教育をすることを考えるべきではなかろうか。

 そしてそれは講義をやさしくしたり、点を甘くしたりすることではなくて、エリートならぬ平凡な大衆的青年の中に眠っている創造性を開発すること、その仕方を見つけ出すことにほかならないであろう。そうすることによって若者たちに、創造的に生きることの喜びと生きがいを体得させることこそ、大学がしなければならない、現代的課題ではなかろうか。

 それにはどうしたらいいか、大学における開発的教育の方法如何、ということになると、なかなかむずかしいが、基本の原理は、やはりケーラーのチンパンジーの実験のそれと同じであるはずである。それを大衆的な大学生段階の青年たちの場合に、どういう仕方で、どういう形態で応用したらいいのか、それが探求されるべき、大学教育の研究課題であろう。私たちがいま、私たちの大学で模索的に試みているいくつかの試みも、そのような探求の若干にほかならないのである。

 それは簡単にいうなら、学生に彼ら自身でアイデアを出し、それの目的適合性を的確に吟味し、そしてその上に立ってその実行プランを適切に立て、そして協力者を適切にマネージして、それを実行するという、創造的、問題解決的な知的隆験、知性的な行動経験を済ませることだといっていい。既存の知識の習得ではなくて、自力による創造的探求の経験をさせる機会を豊富に提供することである。それはかつては大学院の仕事とされていたゼミナール的な教育、つまり教授をするのではなく、学生の研究活動を促し、助言するという仕方の教育を大学入学の初めから、大学教育の主要な、中核的な部分と考えて実施することである。

 もちろん、この場合の研究活動は非常にアカデミックなものから、非常にプラクティカルで、日常的なものまで多種多様であり、学者などになる気は毛頭ない、大衆的な学生も喰いついて来るようなものを多く含んでいることが必要である。

 今日わが国の大学でもあちこちで若干試みられているプロ・ゼミ、または教養ゼミと呼ばれているものは、このような試みの一つであるが、ただ単に一週に一回参加するプロ・ゼミや教養ゼミだけがそのような創造的活動のチャンスになっているだけではなく、一般教育や専門教育の多くが、そうなっていることが必要である。

 そのようにして大学が、大学の全体としての性格が、教師も学生も創造的知性を活発に働かせて、アカデミックな、あるいはプラクティカルな、あるいは高遠な、あるいは卑近な問題についての知的探求の湯になる時、大学は初めて生き生きとした生命力の感じられる場所となるであろう。

 大学が今日そこに集まっている大衆的な青年にとって意味のある場になる途は、要するにそれが、俊秀ばかりのエリート教育の場であった時代にも、本当はそうすべきであったところのこと、すなわち教育の本質に立ち戻ること、形成的な教育観から、開発的な教育観に転換することにほかならない。そう私は考えている。

(昭和四三年八月「リクルート」)