学問と私の遍歴

新教育実践への夢

 今日は私自身の世界教育史についての構想を、私が歩いてきた教育研究者としての遍歴といった形で、語ってみようと思っています。

 私は大正八年に小倉の師範学校に入ったのですが、そこで末岡作太郎という歴史の先生に感化され大正十二年に入学した東京高師では、日本近代史学の開拓者三宅米吉先生から更に深く影響されました。私の教育史研究はこの二人の先生から受けた、アカデミックな実証的な歴史研究への興味をその基底にしていました。

 しかし、その頃私にはもう一つのプラクチカルな関心、つまり新教育運動への関心が成長しつつあったのです。私の小倉師範時代は大正デモクラシーのピークの時であり、東京高師時代はへレン・パーカスト女史が来日したり、野口援太郎が池袋に児童の村小学校を作るなどという時でした。しかも野口さんが経営していた姫路師範学校は小倉師範のお手本であるというわけで、まさに新教育路線の一端で育ったのです。

 また、高師時代には、もう一つ重要な獲物がありました。それは若きマルクス主義経済学者山田盛太郎先生の講義を聞き、その影響でマルクス、エンゲルスのものをむさぼり読んだということです。

 しかし、私は新教育への興味をも捨てず、その方への興味は、もう一つの興味であった歴史的興味と結びつき、新教育の思想史的源流に向うという方向に行ったようです。そこでルソーの「エミール」を読み「エミール」は私の教育思想の育ての親となっています。

 昭和五年に文理大に入学し、そこでルソー研究を深めると共に、それを前後に広げて新教育思想の発展史を研究しました。卒業後茨城師範付属小学校の主事になり、新教育実践の夢を持っていましたが、それはファシズムの嵐の中で挫折してしまいました。その後の十年間は支那事変から太平洋戦争の時代で自分の生涯の内、括弧に入れておきたい時代でした。

 さて不幸な戦争が終り、私は再び新教育運動の推進とその思想史的研究に戻りました。川口市助役時代の川口プランの産婆役、コア連の推進「新教育への道」「カリキュラム改造」「ヒューマニズムの教育思想」などの著作はこの頃のものです。

 以上、新教育思想史研究の時代、これが私の教育史的遍歴の第一期でした。

 二十三年に文理大の教師になり西洋教育史の講義を担当することになり、その最初の講義はアメリカ教育史でした。そして、その内容は教育委員会制度や六三制など民主的教育制度の発達を論じたものでした。六三制の誕生、教育委員会の発足、教育基本法の制定なと戦後の教育制度の改革は、新教育運動に関心を持ってきた者として、氷く待望していたものの実現として、全くありがたい事であり、それらを守り育てるために、このような近代的教育制度の欧米における成立の歴史を明らかにしておくことが大切だと思ったのです。その頃の著作は「西洋教育概説」「欧米教育制度発達史」などであり、また学位論文の「中世ドイツ都市における公教育制度の成立過程」も同じ頃に生まれたものです。私はこの論文で、中世都市のうちに、長く日本の教育を支配してきたウルトラナショナリズムやファシズム国家権力とは全く異る市民社会的教育制度の原型をみようとしました。そして、それこそが日本の教育基本法を貫くものであることを言おうとしたものでした。

 このように、欧米の近代的教育制度の発達史を日本の教育制度の近代化のための示唆とするためにという問題意識に促されて研究するというのが、私の教育史的遍歴の第二期をなしているのです。

裏からみた教育史

 しかし、二十六年頃から、日本の政治とその一環としての教育政策は転換し始め、いわゆる逆コースの動きを始めました。学習指導要領改訂の動き、教科書制度の改悪、教育委員会制度の改悪、勤評の実施、教育中立二法の制定という具合に、反動文教政策がのしかかってきました。私は日教組、日本教育学会を根拠地にして、この一連の反動文教政策に対する批判活動を展開するようになります。

 このような、新教育を防衛するための社会的活動に身を入れることにより、私の教育史研究もまた変化せざるを得ませんでした。私は教育史研究者として、自分の研究を自分の社会的活動と表裏をなすものにしなければならなかったのです。私は、このような反動的教育政策が日本のこの時点だけのものでなく、近代国家に共通なものであり、近代国家では、どこでもそれと民主勢力との対立緊張を通して今日に及んでいるのだということ、また、その政策には、一定の定石みたいなものがあることを知る必要があると、考えるようになりました。こうして、私の教育史研究は保守的反動的な教育政策と、それに対する反体制的教育運動のレジスタンスの歴史を近代国家に共通なものとして、とらえるという事になったのです。このようにして私の教育史的遍歴は第三期に入るのですが、この時期の代表的著作が三十年に出た「世界教育史」です。この本の中で十九世紀末から二十世紀へかけてのいわゆる新教育運動を帝国主義の展開期に、その要求に呼応して生まれた運動として把えています。私は二十六年に出した「新教育への道」の改訂版で、十九世紀末以来の新学校がブルジョア的であり、日本のもブルジョアリベラリズムの自由教育であったことは指摘したが、それをはっきりと帝国主義的教育として把握するまでには至っていませんでした。新教育運動をこのように把えるということはこれまでのように新教育思想史やその運動史を連続的な一筋の発達史として把えるという私の在来の立場を根底から揺さぶるものでした。

 私はこの「世界教育史」と前後し「問題解決学習」という本を出しています。この本の第六章で“問題解決学習と歴史”というテーマで歴史と歴史教育について論じています。そこで私は、歴史というものは、自慢話や苦心談に原型があると述べ、歴史教育とは、問題解決の反省記録としての歴史を自ら書くことから始められ、それと並行して、自分のこれからの問題解決のために、自分及び他人の残した歴史即ち反省記録を読むという経験がなされることであると書きました。歴史が問題解決への努力や闘いの反省記録である以上、その反省はあくまで科学的、客観的に行われるべきだ。しかし同時にそれは、主体の喜びや悲しみによって生れ、支えられているものでしょう。

 さて、「世界教育史」はこの歴史論や歴史教育論と、うまく符合しているでしょうか。これが深いいきどおりを秘めて書かれた教育史であることは、確かなようです。この本は、過去の政治権力がその権力の維持と強化のために、人民をマニピュレートしてゆく重要な手段の一つとして、教育をいかにしくんで行ったかということを原始時代から現代に至るまで述べたのですから、一方権力の立場からみると腹の立つ本であったでしょう。

 しかし、これが世界教育史の名に値するかと言うと、私にも色々疑問があります。世界教育史が成立するためには、「世界」と呼びうる統一的な主体がなければなるまい。その意味で、ソヴィエト科学アカデミーの世界史、カトリック教会の立場で書かれた世界史などには、はっきりとした世界的主体があると言えましょう。しかし、私の世界教育史にはそのような主体がないように見える。

 そう考えている内に、これは一つの比較教育史に他ならないのではないか、と考えるようになりました。主体がないのではない。主体はあくまでも、日本の反動教育政策に反対し、抵抗している日本の革新勢力といったものでありその立場から日本政府がやってきたことを、諸外国がやってきたことと比べて諸国家に共通の歴史的事実として見定めようというのが、この本のねらいであったのだから、それは比較教育史である、と考えました。比較教育学の起りが、自国の教育政策、制度の改善のために先進国のそれを調べるという所にあったことは明らかです。比較教育史という概念はまだ一般化していませんが、ここでは、比較教育学が現在の教育制度、政策を比較するのに対し、比較教育史はそこに至るまでの歴史的プロセスを比較するのだとしておきましょう。

 このように考えると外国教育史の研究などというものは、すべて比較教育史であり、自国の教育推進の参考に供するのを目的にしているわけです。その意味で私の第一期、第二期の西洋教育史研究もそして、私の「世界教育史」という名の本もまた、依然として、比較教育史に他ならない、というわけです。しかし、同じ比較教育史でも、比較の目的は、発達史的な比較教育史から、政策批判的なそれへの違いがありました。

 このように、私の教育史的遍歴の第三期は、日本の教育政策を批判する立場で書かれた比較教育史ということになるでしょう。この立場から外国教育史を書けば、いくらでも書けますが、国別教育政策をそろえて行くことで世界教育史が成立するわけではないのです。いくらでも書けるとしても、この立場で、比較の対象になるのは、いわゆる先進資本主義国に限られ、それらを並べただけでは、列強教育史であっても、世界教育史とはいえないのです。

 それでは、このような比較教育史から世界教育史への転化はいかにして、可能なのでしょうか。

研究と社会的活動

 こうして私の教育史的遍歴は第四の時期に入って行くわけです。そして、それは主体の発見というよりも、客体の発見という形で始まりました。端的に言うと、これまで少なくとも方法論的には、比較の対象として把えられていた国々が、一つの統一的な集団として批判の対象そのものとして映ずるようになると言うことでした。

 「世界教育史」を書いていた二十八年十月二十五日の朝、ふと朝日新聞の片すみに見つけた小さな記事、それは後に、日本人の心の再軍備教育を要求したということで有名になった池田=ロバートソン会談の記事ですが、これは私にとって非常にショックでした。それから新安保条約、日米科学会議、日米教育文化会議の成立の中で、教育史としてもアメリカの権力が抵抗と批判の対象として実感されるようになりました。

 また、一方では、私は学術会議に出ていましたが、そこでの関係から、OECD(経済協力開発機構)の活動に注目するようになりました。今日では、このOECDで加盟諸国の科学技術の強化、科学技術教育の強化のための協力についても議せられているのです。そして、このリーダーは米・英・仏・独などゲルマン系の強国群であるわけで、私には、このグループが一つのグループとして、批判の対象として直感されるようになり統一的に客体として見えるようになったのです。そして、このグループに属する学者は、これらの国々をやはり一つの統一体として把えて、ヨーロッパ中心のランケ流の世界史を書いていたのではなかったか。それなら今や、それをひっくり返して、そのグループを歴史の主体が立ち向う主体として対面して行けば良いのではないか。このように私は考えるようになったのです。

 このようにして書かれた世界教育史は、依然としていわゆる先進諸国を立役者として登場させるでしょう。その意味で私の遍歴の第一期、第二期、第三期の西洋教育史と外見上あまり変わらないかも知れませんが、その内容においては、一八〇度違うといえましょう。あるいは、裏からみた西洋教育史といっても良いかも知れません。ところで、その裏側にある足場は何でしょうか。その裏側としての主体は何でしょうか。

 私は、この時期に上原竜禄先生の影響を受け、バンドン会議によって盛り上ってきたAAグループの主体性に身をよせ物を考えることの必要を感じてきました。そこに裏側の主体がある、と考えてもみました。しかし、これは民族と階級という問題をはらんだ難かしい問題です。だから、比較教育史として世界史を考えた段階での主体からの延長として考えるならむしろ主体は、世界の革新勢力ということにならざるを得ないのです。しかし、現実的基盤としてそれは分裂状態にあり一つの統一的主体をなしていません。今日の世界には、世界史、世界教育史を書くことのできる全世界的な人民的主体は現実には出来上っていないという他はありますまい。それは単に世界の現状がそうだということだけでなく、今私とともに「世界教育史」を書こうとしている人達のめいめいが、いくつかに分かれているどれかに身を寄せているのであって、私達自身が一つの統一的主体になっていないということでもあります。身の置き場所そのものが、実は歴史的に生き、歴史を変えていく精進的な行動の中で定まってくるものだと考えています。

 お前の今の身の置き場所は何かホブスンか、レーニンかそれともハルガルテンかと開き直って聞かれたら今の私には、自らを啓蒙非マルクス主義者と呼んでいるハルガルテンの立場が最も近いように思われます。しかし、私達のグループにはレーニンからホブスンまで、色々の立場の人が集まっているのですから、これからももみ合って行くことでしょう。私の教育史的遍歴の第四期は今こんな状況になっているのです。

 私の生活教育論がはいまわる経験主義と評されたように、私の教育史的遍歴もはいまわる経験主義と評されるかも知れません。苦労が足りない、敵が見つかっても、味方がみつからないではないかと評されるかも知れません。しかしこの敵は、世界の多くの人々の共同の敵であることだけは明らかです。

 ベトナム戦争が世界の世論に反して強行されている今日の時点に即して言えば、我が子を同国人同士の殺し合いにかり出されるベトナムの母親たち、何の関係もないはずのベトナム戦争に我が子を連れて行かれ、殺されている南朝鮮やオーストラリアの母親達、そしてアメリカ兵士の母親達、その母親達はグローバルな組織で反戦運動をしているわけではないが、しかしそれは組織なき組織、無主体の主体といって良いのではないでしょうか。そんな子を持つ世界中の素朴な母親達の立場で、どこの国の母親が読んでも納得でき、そして、彼女らのいくらかの励ましとなるような、そんな教育史を書いてみたいと思う訳であります。

 なお、以上述べたような四つの立場は今日も私の中に全部生きていて、一種の重層的構造をなしているようです。私自身は次の立場に移ることによって前者の立場を捨てるのではなく、次の立場に新しく位置づけようとしてきたつもりです。学問の遍歴、流転というもの、人生とはすべてそんなものではないでしょうか。

(昭和四一年三月「教育大学新聞」)