遊び場としての大学

2000年3月17日

入学式も卒業式もない大学での“学長講話”

うめね さとる
梅根 悟

やらない理由

 私のところは入学式も卒業式もやらない大学である。全くやらないと言ったらうそになるかも知れない。入学の際は学部や学科ごとに入学登録といって(入学登録とは言わない)一人一人の新入生に登録簿に署名させる。

 これはヨーロッパの古くからのマトリキュレーション(登録式)をまねたもの。また卒業の際には、学部長や学科長が一人一人に卒業証書を渡すことになっていて、卒業証書交付(とは言わない)とよんでいるから、全く何もやらないわけでもないが、セレモニーらしいものはやらないのである。卒業証書を渡したあとは卒業生をはじめ、教職員や有志在学生が講堂に集まってビールをのんで歓談することになっている。学長はその際に乾杯の音頭をとるだけである。

 従って卒業の際の学長講話はないが、入学の際には入学式での学長訓辞といったものではなく、登録がすんだあと、数日にわたって行われるオリエンテーションの一環として、学長講話がある。これはむしろ大事にしていて、私としてもじっくり聞いてほしいと思っている。

 入学式らしい入学式、卒業式らしい卒業式をやらないのは、大学に入学したり、大学を卒業したりすることが、さほど重大なことではないのだということを学生諸君にも理解してもらうためだ、と言ったらいいかも知れない。そんなことはどうでもいいんだ、と大学自身は考えているのだということを、形の上であらわしたものだと言うことができるだろう。

 だから、入学後のオリエンテーションでの学長講話でもそのことを中心にすえて、私の大学論や大学教育論を新入生諸君にきいてもらうのである。

少ない辞退者

 それは年によって若干話の筋みちがちがい、話の種もちがうが、言いたいことはほぼ同じで、要するに入学式も卒業式もやらないのはなぜか、ということを話すわけである。

 諸君はなぜ大学に、特にこの和光大学に入ろうと思ったのか、そう質問するといろいろの答えが返って来るだろう。いや私はこの和光大学にぜひ入ろうなどとは考えなかった。ただなるべくいい大学に入ろうと思った。それで国立一期校を受けて失敗し、有名私立大学を受けて失敗し、やむを得ず和光大学を受けたのだ、デモ入学だという人もあるだろう。

 その反対に自分は和光が好きだから、ぜひ和光に入りたい、従ってほかの大学は一切受験しない、和光一本でやったという熱烈な和光ファンもいるだろう。これはだろうではなくて現にそんな人がいるのである。和光大学では推薦制と学科試験制と二回入学者選抜をやっているが、一般によその私立大学に比べると合格者の中の辞退者の率が少ないらしい。ひどいところは、有名大学でも入学定員の三倍も合格させておいて、ちょうど定員一ぱいになるところもあるそうである。つまり合格者の中の三分の二は辞退するのである。

 それに比べれば、和光では学科試験制でも辞退者は次第に少なくなってきて、今では二〇%内外、いやもっと少ない学科もある。推薦制の方は早い時期にやってしまうのだが、辞退者は非常に少なく合格者の一%内外にすぎない。つまり合格者のほとんど全員が入学して来る。こんなことを「歩止まり」というそうだが、和光はその「歩止まり」がわりにいいのである。これはやはり諸君のなかにぜひ和光に入りたいという和光ファンが多いからだろう。

 それはいいことだ。自分は東大を受ければ合格する自信があるけれども、断固として慶応だ、あるいは早稲田だと心にきめて、そこに行った青年が昔からたくさんいて、それで今もそれがつづいているのだろう。その慶応ファン、早稲田ファンのように、和光は開学十年にしてそんな歩止まりのいい大学になったんだと言えば、いくらか自慢の種になるかも知れない。

なぜ大学に

 しかし、私がいま諸君にききたいのは「なぜ和光に」ではなくて、そもそも「なぜ大学に」である。そう尋ねられたら諸君は何と答えるか。答えはさまざまだろう。そこに山があるからみんな登るのと同じで、そこに大学があるから、みんな行きたがるのだ、と答える人もあろう。おやじがあと三、四年は遊んで来てもいいと言ったので、大学はカッコのいい遊び場だと思ってやって来た、と答える人もあろう。

 だが、自分はそうではない。自分はぜひ大学を卒業したい、それもいい大学、一流大学と言われるところを卒業したい。そこの卒業証書にものを言わせて中央官庁なり、一流会社なりに入り、将来高い地位につきたい。それが親の期待でもあり、自分の望みでもある。じゃあお前は就職のパスポートとりに大学に来たのか、と問われたら、「ハイ、そうです」と率直に答えるつもりだという、リアリストでちゃっかりしている諸君もあるだろう。今でも昔と同じように、Aデパートは何々大学、B銀行は何々大学ということになっているらしいし、今でも高級官僚はおおむね東大出で占められているのだから、無理もない。

 西ドイツのシュピーゲルという有名な週刊誌は、数年前に「佐藤首相を見よ、美濃部都知事を見よ、宮本日共委員長を見よ、はら切り文士三島由紀夫を見よ、みんな東大出ではないか」と書いたが、日本という国は永年そんな学歴社会だったし、今もそうだから、だれもかれも一流大学へ一流大学へと競争し、しのぎをけずるのも無理はないかも知れない。だが、どうもさきの和光ファンの中にはそんな諸君は少ないらしい。学歴狂はいないらしい。そして私自身もそんな諸君を好きではない。

学ぶ者の本領

 私は、いまのいくつかの答えの中では「遊びに来た」というのが一ばん好きである。私としては、大学はもともと遊び場だと思っているからである。ただそれはマージャンクラブや囲碁クラブとはちがって、学芸という遊びに夢中になるところである。弘道館記の中に「芸ニ游ブ」という言葉があるが、この「游学、游芸」の志こそ大学生の本領ではなかろうか。だとすれば、卒業証書なんかどうでもよかろうし、入学式や卒業式などなくてもいいのではなかろうか。諸君は学芸にあそびに来たんだから、徹底的にあそびなさい、と、そう私は言いたい。……

 私はこの四月には、またこんなことを新入生に話したいと思っている。

(和光大学学長・教育学)

『読売新聞』昭和50年3月28日夕刊、「教育」欄

※傍点を太字に変更しました。

松永洋介 ysk@ceres.dti.ne.jp