自然観(クラモチズム)

クラモチズム・マンダラ

 私達のグループで考察した《自然観》は、倉本聰の作り上げたドラマ『北の国から』から直接探れる、あるいは享受出来うるテーマとはいえない。他のグループもそうではあるが、参考となる対象が、製作された当時の時代背景というバックボーンからではなかった(おそらくは製材状況、北海道開発庁の存在、世界的な環境への意識変革もあったであろうが)。
 つまり、シナリオからドラマへと主題の現場が移行したとき、《自然》という、ただでさえ漠然とした意識の意味がズレてしまう。言い換えれば、倉本聰個人のもつ《自然観》が映像になるということは、限定された空間が現出されることになる。個人の心象風景が透明であるならば、それが不透明な世界として享受者に届けられるのである。
 故に、私達はまずその矛盾点を作り出す原因を捜し出すべく、《自然観》に関連する対象を、作品の核にあたる倉本聰個人の歴史、また核から発露された言葉を求め、個人個人それぞれに別行動に移った。

 私は倉本聰個人の歴史を調べてみた。そこで何を感じたかといえば、場所の移動という点において、最初は富良野に何の幻想も抱いてはいなかったのでは、ということだ。
 現時点(一九九四年)で、倉本聰は『北の国』あるいは『北の』という言葉を、事ある毎に使っている。よほどその言葉が気にいっているのだろうか。東京からみて『北』である、というだけではない。北海道というもともと存在する土地に方角性を提示することによって、幻想空間が再創造される、という効果を私は信じた。
 しかし東京を出たキッカケは、三十九才当時(一九七四年)仕事をしていたNHKとの衝突であり、北海道札幌市に遁走したというのも、友人がいたからというのが第一の理由である。そうみると、たまたま移住先が北海道だった、というだけのようにみえる。
 ただ見落としてならないのが、その数年前に倉本聰個人の《自然観》の根底を基にした行動があったことだ。群馬県にある岸田今日子の土地の一部を購入したがっていた、という行動である。
 一九八三年二月五日付けの新聞のコメントでは、もともと東京で生まれ育った倉本聰本人が故郷を求めており、故郷の典型的風景として、太い木、川の流れ、それらの中での生活を求めていた、ということが判る。更に、「富良野を選んだのは偶然だった」とは本人のコメントである。
 こうしてみると、倉本聰本人は北海道に幻想を抱いてはいなかった。一方本人は『北』という言葉を用いて幻想空間を再創造しながらも、現実に存在する地名をも同時に織り込でいる。これはもともと北海道に幻想を抱いていなかった享受者に相乗効果をもって幻想を見せていたといえる。

 ここからはその幻想を、更に倉本聰個人の内部へ向けていく。つまりテレビドラマという倉本聰を含めた人々との共同の場ではなく、個人の場を考察していきたい。
 レポート発表時に載せたように、北海道富良野市に関連した倉本聰には、三つの時期がある。それは
 (1)東京から富良野へ移るまでの時期
 (2)富良野から東京を比較して見始めた時期
 (3)北海道人の一人になった時期
の三つである。これには些か問題が残っている。新聞や雑誌に載ったインタビューなどのタイトルや表題となったコメントだけから判断しているからである。
 それでもこの中から言えることで、最も発展したのは《太い木》概念である。倉本聰の《自然観》はここに集約していると言っても過言ではない。言い換えれば《森》概念であろうか。
 人類は水の近くで生活してきた。それは海であり、川である。海や川を健全な状態で保つ役割を果たしてきたのが、木の集合体という《森》である。このことを再認識したうえで倉本聰は言っている。「文明抑制」そして「自然環境の回復」である。その為には、下流(都会)から上流(地方)へ逆流してくる思想を、正常に戻さなければならない。
 しかしこの《森》概念は倉本聰独自のモノではない。実は、他の自然派人間たちの中でも、既に求められいたし、定着している概念でもあるのだ。かといって、自然環境問題を語るうえで、その意味・価値共に揺らぐものではないが。

 それでは『北の国から』における《森》概念を探ってみよう。
 まず、もともとの思想を三つに分割していく。
 (1)上流の思想(旧・自然開拓者)
 (2)下流の思想(都会生活者)
 (3)逆流の思想(新・自然共存者)
である。そしてこの思想の持ち主をドラマ中から探れば、
 (1)杵次
 (2)令子
 (3)五郎
ではなかろうか。開拓された土地で育った五郎が都会で生活した後に、故郷で新しい自然との拘わり方を探りつつ共存を目指す、という流れが見えてくる。そういう意味で、倉本聰の投影された姿・理想像は五郎であることがわかる。
 独力で、川から水をひいたり、杵次すら薦める電気をひかなかったりするのは、暗中摸索のなかの手段であり、都会生活者の道を拒んだ五郎ゆえの、新思想を実践によって構築するための行動なのである。
 また野生動物への餌付けの問題など、教育者である涼子すら絶対的な答えを避けたのは、答える段階に辿り着いていないからである。また避けることによって、享受者側に問題を提起する効果もある。
 《森》概念は思想としては定着するとしても、実践に移す経過で諸問題を多く孕んでいる。外国料理が日本に入るときに、日本人の味覚に適うように、いくらか変化される。世界規模で起こっている《森》概念そのままが、総ての国で実践されることは難しい。矛盾点が出ても仕方がないのではあるが、その解決策を都会生活者の思想に拠っては意味がない。だからこそ難しいのである。

 倉本聰の《自然観》とは、そういう状態で成り立っている。彼は現実に富良野に居て、三六〇度のパノラマでメッセージを発信している。それを受ける我々はテレビという媒体を通し、切り取られた空間(場所・思想共に別次元)にいる。我々が歩み寄らない限り、何等変革は起こらないのである。そういう意味で、ギャップは依然として残り、倉本聰固有の《自然観》の本質には迫り切れない、という悲観的な答えが総てである。

(阿見毅)


クラモチズム・ビジュアル

 「『北の国から』というフィルターを通して見た倉本聰の自然観」これが当初、私たちの出した後期テーマ発表のための正式なタイトルであった。“自然”という一見、漠然としたテーマを扱う場合において、原作者である倉本聰の持っている「自然観」を、その作品『北の国から』を通して(あるいはその中から)見るというのは、取り掛かり易さや面白さ等の意味で格好の視点であると私は考えていた。しかし、実際に取り組み、倉本聰の仕事を調べ始めると、彼の述べている事柄(正確には書かれていること)と、実際に活動していること(仕事)に明らかに矛盾が生じていることが見え始めた。私は彼がエッセイの中で自然に関して述べた数々の事柄に少なからず感銘を受けていたので、その事実(矛盾)に衝撃を与えられた。「やはり理想と現実はちがうのか?」、「だが倉本聰も人間だから矛盾があって当然」、「しかし結局はカッコつけのポーズなのか?」等々、私の頭の中では倉本聰に対する私一人だけが参加する討論会が連日にわたって開催された。だが、元々矛盾を内包している人間の言動に対して悩んでみたところで、私一人で簡単に解決の出るわけもなく、結局、後に残されたのは倉本聰に対する不信感だけであった。
 私たち「自然観」のメンバーは、最初から倉本聰に対して批判的な意見の立場を持っていた者ばかりだったが、私は今やその中でも特にその急先鋒になっていた。そして皆がそのような立場であったため、誰も(当時)倉本聰を擁護せず、当然ながら私の意見に対して強く反対する人とていなかった。このようにして、さらに倉本聰に対する反感を持ってしまった私には、もはや彼と彼の書いた作品を偏見の眼差しを持たずに見ることは出来なくなり、結局彼から少し離れたところにテーマを見いだすことにしたのである。つまり、「映像」にである注1)。
 以上、序文が少々長くなったが、(1)映像の理論もほとんど知らない素人の私が、「『北の国から』というフィルターを通して見た倉本聰の自然観」の発表において、なぜ倉本聰から離れた《映像について》というテーマを選択したのかということ、(2)当初「自然観」の発表にリンクすることを考えずに私のテーマは決定したということ、以上の二点は最初に押さえておく必要があると考え、あえて紙面を割いたのである(しかし、このような理由で倉本聰から離れた視点を切り口にはしたものの、結果的にはそれが「倉本聰の自然観」を考える上での重要な役割を果たしたと発表を終えた今、私は考えている)。

 『北の国から』全二十四話を初めて私が見たのは、今年注2)の六月であった。ゼミ前期発表のために全話を見ておく必要があり、一晩かけて全話通して見たのであるが、その時にオープニングが変化することに気がついた。後期発表をするにあたって、自然を写している映像を探すことになり一番最初に頭に浮かんだのが、そのオープニングの映像であった。早速オープニングだけを並べて見てみると、以前には気づかなかった事柄をいくつか新たに発見した。このように書くと、それでは以前からいくつかの事柄に気づいていたのだろうか、と思われるかもしれないが、実は「季節が変わる」ということを漠然と気にかけていただけなのである。
 「季節が変わる」ということに関して、今回新たに見直してみて、初めてドラマ内の季節の変化と連動していることが確認できた。つまり、ドラマ内の季節が秋から、冬、真冬、春、夏、そしてふたたび秋へと移り変わるのに呼応して、オープニングの季節も変化していたのである。ここで面白いのは「真冬」を一つの季節としてとらえていることで、作品中でも「真冬」を登場人物のセリフで「本当の冬」という言い方をさせて注3)、「冬」とは別に扱っている。これは倉本聰が、彼の言うところの「厳冬」注4)をリアルに表現するために、“北海道”における冬の「厳しさ」を「真冬」で表現しようとしたのに違いない。
 “北海道”の冬場の映像が、自然の「厳しさ」を視聴者に見せているとするなら、それ以外の季節の映像が見せているものは、自然のもう一つの側面である「美しさ」である。このように自然の二面性に気づくことにより、ドラマ内における季節の移り変わり、秋から始まり秋で終わるということに関する、倉本聰の巧妙な意図が理解できる。つまり、最初の秋に自然の二面性の一面である「美しさ」を見せ、視聴者をそこ(“北海道”)に引き込み注5)、つづく冬、真冬で自然の他の一面である「厳しさ」を見せ、観光旅行では分からない自然を見せる。この「厳しさ」に耐えた者のみが味わうことの出来る、春、夏の自然の「美しさ」を再び見せ、これを視聴者にも共感させる。そして再び季節は戻り、導入のため「美しさ」しか見せていなかった秋の「厳しさ」の側面も今度は同時に見せる。全二十四話で視聴者は、自然の「美しさ」と「厳しさ」という二面を見せられるが、ドラマの最初に近いところで辛い部分を見せ、その後に素敵な部分を見せるために、最終的には「やはり北海道の自然は良い」的な感覚、つまり“北海道”の自然における「美しさ」の印象が強く残っている状態になってしまう。この視聴者に残った後味こそ、倉本聰が巧妙に創作したシナリオで狙ったものである注6)。そして、彼は同時に観光では知ることの出来ない自然の「厳しさ」を視聴者に感じとらせることも狙っていたのであろうが、『北の国から』も観光客集めに利用されている現在注7)、そちらは狙い通りにいかなかったように思われる。
 それでは、倉本聰にシナリオを依頼したフジテレビ側の狙いは何にあったのだろう。民放テレビ局のドラマでの究極的な狙いはもちろん高視聴率の獲得であるが、フジテレビは当時流行し始めていた自然・動物モノ路線によってそれを得ようとし、そのドラマの脚本を倉本聰に書いてもらおうとしていたのであろう。またフジテレビは『北の国から』以後にも例えば映画においては『南極物語』を皮切りに、『子猫物語』、『優駿 ORACION』、『タスマニア物語』とその路線を最近まで継続してきている。また、私の記憶に間違いがなければ、そのいずれでもヒットを記録してきているはずである。つまり、フジテレビは動物・自然モノ路線によってヒット(または視聴率)を狙い、それを成し遂げてきたのである。しかし、倉本聰の述べて(書いて)いること注8)が事実だとすれば、彼はこのフジテレビの思惑通りの脚本を書くことを拒否し、あくまで人間をメインとしたドラマ『北の国から』を書いたのである注9)。フジテレビとしては、本編注10)放送から十年以上たった現在もスペシャルとして継続するほどの人気を得たのであるから、路線は思惑通りでなかったにしろ、結果としては狙い通り、つまり「高視聴率を獲得できた」と言えるだろう。
 倉本聰が動物・自然モノ路線ではなく、人間をメインにして脚本を書いたとはいえ、『北の国から』にも動物や自然が登場する。では、その映像、つまり『北の国から』内の動物や自然の映像に、これらの動物・自然モノ路線の映画における映像との共通点はないか考察してみたい注11)。
 前述した動物の登場する映画では、動物の映像を人間の意図にそうように“モンタージュ(切り張り)”をして意味を持たせているが、『北の国から』でも同様のことがおこなわれている。つまり、人間が映像操作(編集)することによって動物の映像に、本来とは違った意味付けをしているのである。このことで、最も理解しやすいのは「母子づれの熊」注12)の映像であろう。この映像の母熊と二頭の仔熊は、あきらかに純の語りから推測されるような意図をもっておらず、後から映像に意味付けをしているのである。そして、スタッフロールの中に映像提供者の名もあることからも分かるように、撮影者もまた、ただあるがままの熊の生態を写していたに過ぎないのかも知れず、ましてやドラマで使われたような意味付けは、その映像に求めて(持って)いなかったであろう。この「母子づれの熊」の場合は、脚本通りの意味付けをしようとしても、それに使用できる映像がなかっただけで、他の場合は、脚本の意味付けに符合するような映像を、あらかじめ多数撮っておいた中から選択し、必要に応じて“モンタージュ”をしているのである。このことを裏付けるものとして、朝日新聞に掲載された竹越カメラマンの言葉がある。記事を一部引用注13)すると「『キタキツネをはじめ、登場する動植物も四季に分けて様々なポーズを撮ってある。状況に応じた絵がないと利用価値がありませんから』。キツネを追って何時間も粘ったり、ドラマのカメラマンというより、ドキュメンタリーカメラに近い仕事ぶりだ。」(『』内は竹越カメラマンのインタビュー、傍線は引用者による)と書かれている。この傍線部分の“利用価値”こそ、映像操作(編集)のために利用する価値であり、したがってこの記事が“モンタージュ”の裏付けになるであろう。ただし、ここで考慮しなければならない問題があるとすれば、この記事が一昨年のものという点である。竹越カメラマンは本編の時から(スタッフロールで確認する限り)一人で撮影しているのだが、本編当時とそれから十年たった一昨年とで『北の国から』の撮影方法が途中で変更された可能性、つまりスペシャルになってから“モンタージュ”を始めた可能性がある。また、竹越カメラマン、およびこの記事がスペシャルのみを前提としている可能性もある。このうち後者の可能性については、記事を注意深く読み解いてみると、「連続ドラマ」という言葉を使用しながら本編のことにも触れているので、「スペシャルのみ」で記事を書いてはいないことが分かり否定できる。だが、私自身は可能性の高さとして前者の方を危惧していた。なぜなら、スペシャルになってから“モンタージュ”を始めた可能性、つまり竹越カメラマンの映像に関する考え方や技法(技術)が変わるには、十年という歳月は十分すぎるのではないかと考えたからである。
 竹越カメラマンの考え方や技法(技術)が変化した可能性が高い、と私が判断する理由を説明するには、この話を脇に置いておき、まず『北の国から』本編における登場人物の視点について述べなければならない。
 『北の国から』本編中で、登場人物の視点で撮影された映像がいくつかあるが、その中でも純の視点が圧倒的に多い。これは、純は主人公であり、その目線で見ている視界を視聴者に見せることによって、純(主人公)に感情移入(もしくは同一化)させることが目的であると考えられる。この視点の特徴としては、純に見えるものだけが見え、純に見えないものは決して見えない。また、純の視点とは反対に、見えるはずのないものを、カメラのズーム機能などを使用して見えるようにしてしまうものとして螢の視点注14)がある。『北の国から』は最初、この二人の子供の視点を巧みに使用することにより、視聴者をその世界に引き込んでいくのだが、この視点に途中から少し乱れが生じてくる。十一話で草太の視点が登場して以来、十七・二十四話で五郎、二十三話で警官、とそれぞれ大人の視点が登場する。つまり、最初は使用されなかった純と螢以外の登場人物の視点が、途中から(少しとはいえ)使用され始めているのである。このことが何を意味するのかを考察する前に、まず押さえておきたいことは、映像の使用方法が本編の間に変化していることであり、それは竹越カメラマンの考え方や技法(技術)が変化した可能性があるということである。先ほど脇に置いた話に戻ると、私が十年という歳月は竹越カメラマンの映像に関する考え方や技法(技術)を変えるには十分すぎると考えた理由は、まさにここにある。つまり、本編の撮影の間に竹越カメラマンの考え方や技法(技術)が変化した可能性があるということは、それより遥かに長い十年の間にさらに変化し続けてもおかしくはないということであり、そのことは当然、スペシャルになってから“モンタージュ”を始めた可能性もあるということになるのである。だが、幸いなことに、動物の映像を“モンタージュ”することは本編の時からやっていた、という裏付けを得るものが倉本聰のインタビューの中にあった注15)。これは、昨年発行された本に掲載されたものであるが、本編撮影当時のことを彼が語ったもので、信頼するに足る証拠であろう。もっとも、書かれていることをそのまま信用するのか、と反論することも出来るだろうが、竹越カメラマンと倉本聰がわざわざ口裏を合わせるはずもないし注16)、その必要もない以上“モンタージュ”はおこなわれたと考えるのが妥当であろう。したがって、動物の登場する映画と『北の国から』の映像における共通点は、「動物の映像を人間の意図にそうように“モンタージュ”をして意味を持たせている」ということになるのである。
 さて、最初は使用されなかった純と螢以外の登場人物の視点が、途中から使用され始めているのはなぜか、という点について考察することを脇に置いてきていたのだが、ここで話をそこまで戻すことにする。純と螢以外に視点となった登場人物をもう一度確認すると、草太、五郎(二回)、警官である。この中で警官だけはレギュラー格の主要登場人物ではなく、たった一度きりの登場であるが、彼が純と螢の靴を見るというのは、ゴミをあさっていた二人への職務質問(?)の中で、靴を探していたと答えられれば当然であろう。この警官の視点は、草太の視点が純を見ていた、つまり今まで視点になっていた純や螢を他者の視点で見るという点で同一である。これに対して五郎の視点の場合、本田、こごみを見ているので、あきらかに方向性が前出の二者とは異なっている。ここでまず考えられるのは、前出の二者の視点は、普段は視聴者の視点になる純や螢を他者の目、つまり“外”から見させることが目的で、五郎の視点は純と螢同様に感情移入(もしくは同一化)させることが目的になっている可能性である。次に考えられるのは、さまざまな年齢層の視聴者のために、子供だけでなく大人の視点も途中から取り入れたという可能性で、『北の国から』がさまざまな年齢層の視聴者を対象にしていたこと注17)を考えればあり得ることである。そして、もう一つ考えられるのが、途中で視点が乱れた(乱用してしまった)可能性で、当初の視点の使用法を、意図的にしろ非意図的にしろ、崩してしまったとも考えられる。以上の三点以外にも可能性はあるだろうが、これを裏付けるための資料は何も発見できなかった注18)ので、いずれにせよ私の推測の域を出ることはないだろう。

 以上、本文の中で私が述べてきた事柄を整理する意味も込めて順に並べてみると、I・オープニング、II・自然の持つ二面性、III・倉本聰の狙い、IV・フジテレビの狙い、V・動物モノ路線映画の映像と「北の国から」の映像との共通点“モンタージュ”、VI・登場人物の視点となる。では、以上の推移で私が得た結論は、前期ゼミで分かっていた「『北の国から』のシナリオと映像は必ずしも一致しない」という事実の最大の要因が、竹越カメラマンにあるということである。つまり、彼が撮った映像には非意図的に、彼の主観や映像に対する考え、および技術が表れており、『北の国から』は映像になる過程の“竹越カメラマン”というフィルターを通った時点で、完全に倉本聰の頭の中にあった“モノ”とは異なってしまっている。もちろん、他にも監督や演出など多数の人間のフィルターも通しているのだが、いずれににせよ何らかのフィルターを通った時点で、『北の国から』というドラマは原作者である倉本聰の手を放れ、一人歩きを始めているのである。もっと極言すれば、倉本聰の思考から“文字(活字)”になった時点で、すでに媒体である“文字(活字)”にするためのフィルターを、倉本聰自身の中で通ったことになり、それが一人歩きを始めているといえる。だとするならば、序文で書いたように、倉本聰の述べている(正確には書いている)事柄と、実際に活動していること(仕事)に明らかに矛盾が生じているということにも説明が付けられるだろう。ただし、倉本聰自身が人間(自己を含む)の内面矛盾を容認すると受け取れる発言をしており、最初から作者が矛盾を持っていると言ってしまっていることを、ここで押さえておく必要がある。なぜなら、私が先ほどから述べている「フィルターを通る」ということ以外にも矛盾の要因が存在している可能性を、この発言は示唆しているからである。
 結局、倉本聰が言いたいこととは、彼の発言と行動に矛盾があるのは人間だから当然であり、文句があるならば言えばいいが、文句を言う側も人間であるから理想と現実の内面矛盾を持っているはずである。そのような内面矛盾を持った人間たちが受け手であるから、彼は作り(送り)手として自己の持っている理想と、認識している現実との内面矛盾を、隠すことなくさらけ出し(使い分け)ているのである。つまり、(1)作り(送り)手である倉本聰に(人間に内包された)矛盾があり、(2)受け手である視聴者にも(人間に内包された)矛盾がある、以上の要因によって矛盾が生じるのであるから、倉本聰には手のつけようがないということだろう。ただし、私としては前述した、(3)媒体にするためにフィルターを通すことによって作品が一人歩きを始めている、という要因もあえてつけ加えたい。なぜなら、私が「映像」をテーマにしたことによって再発見したことこそ、他ならぬこの要因だったからであり、これが後期ゼミ発表においての収穫だったからである。
 以上、「自然観」というテーマで私が選択した映像だけを考察してきたが、それでは私が序文で述べたように衝撃を受け、反感を覚えた、倉本聰(の述べていること)と作品(出来てきたモノ、実際の行動による産物)との矛盾はどこから生じているのか。前述した三点の理由のうち、(1)の作り(送り)手が持っている“現実”は、認識の差異はあるとしても、それが倉本聰と作品の矛盾を生むことはあり得ない。つまり、(1)の作り(送り)手が持っている“理想”、そして(3)の、媒体にするために通すフィルターが矛盾を生んでいるのである。
 人間である倉本聰の持っている理想、一人歩きを始めた作品に込められた理想、この両者の理想は常に変化を続けているために、決して重なることはない。よって、両者における理想の相違は、今日も“生き続けている”のである。

(渡辺正樹)

【注】
1 本文に戻る
「映像」をテーマにするにあたっては、酒寄先生に多大なアドバイスを戴いた。
2 本文に戻る
一九九四年を今年として、以降も話を進めている。
3 本文に戻る
第七話、中畑和夫のセリフ。[テキストP一三九下段]
4 本文に戻る
厳冬の季節」(傍線は引用者)[『北の人名録』P二五より引用]
5 本文に戻る
「倉本:小説でもそうでしょう。最初の一〇ページぐらいでのると、たちまち面白くなってくるよね。まず、のせること、つまりその世界を判らせ、入ってもらうことが大切。」(傍線は引用者)[『倉本聰の世界』P一一七より引用]
6 本文に戻る
自然に関してだけでなく考えれば、倉本聰の狙いは他にもいくつもあるだろうが、ここでは「自然観」に関わりある以上のもの以外は割愛する。
7 本文に戻る
今年十月末、JR東日本は「倉本ドラマへ行こう。」というツアーを組み、その宣伝は「『北の国から』のスペシャルの撮影まっただ中。」[毎日新聞一九九四年九月二一日夕刊]と書かれていた。
8 本文に戻る
「倉本:(前略)『アドベンチャーファミリー』や『キタキツネ物語』のようなものを書いてくれって言われたんです。でも、北海道のどこに行っても『アドベンチャーファミリー』のような場所はないから、嘘になるって言ったんです。(中略)僕は思わず『ふざけるな』っていったね。」[『倉本聰の世界』P一一〇より引用]
9 本文に戻る
「このドラマには大自然が出てくる。可愛い動物も、植物も出てくる。しかしドラマの主流となるものは、あくまで人間であり、僕らである」(傍線は引用者)[『倉本聰の世界』P一二七より引用]
10 本文に戻る
全二十四話のこと。これ以降も同意。
11 本文に戻る
自然の映像に関しては、何を持って共通と判断するかが曖昧であったため、結果として省略した。
12 本文に戻る
第二十二話、純の語り(夢)の中に登場。母熊を令子、二頭の仔熊を純と螢に見立てていると私は解釈した。[テキストP四三八上段]
13 本文に戻る
[一九九二年一月一七日夕刊より]
14 本文に戻る
「見えないはずのものをみえるようにしてしまう」ために、純の視点と比較して螢の視点の方が曖昧になっており、正確にその回数を測定することは不可能である。
15 本文に戻る
「倉本:実はこのアイディアは、(中略)ドキュメントを作ったときにひらめいたものなんです。(中略)隠しカメラで女の子をずっと撮っていたんです。そして、今度は全く別の日に、通路をはさんだ別の場所に男の子に座ってもらい、こちらも隠しカメラで延々と撮っていく。そうすると、必ずこっちに目を走らせる瞬間があるんです。その瞬間に本を読んでいる女の子を編集で入れるわけ。そうすると、いかにも二人が同時に同じ汽車に乗り、通路をはさんで同じ客車に座り、しかも互いに意識しているように見える。こうして、四季を通して撮っていると、まるで恋愛しているみたいに移るんです。その経験があったものだから、動物と人間とでも同じことが出来るはずだ、と撮ってみたんです。」(傍線は引用者)[『倉本聰の世界』P一一一より引用]
16 本文に戻る
最初に倉本聰に反感と疑いを持っていた私としては、彼を信用するというのは自己矛盾を抱えているかも知れない。しかし、もし二人の証言から推測されることをまだ疑うとするならば、私は極度の人間不信者以外の何者でもないだろう。
17 本文に戻る
「倉本:(前略)まずいことに日本のテレビドラマは、男の中高年を完全にターゲットから外してしまっている。(中略)
梅村:『北の国から』は、男女の関係なく、年令も関係なく支持されている珍しいドラマだと思うんですが……。
倉本:そうですね。(中略)年令や男女の別なく、愛されているものってやはり強い。」[『倉本聰の世界』P一二三より引用]
 以上の文章から推測した。
18 本文に戻る
『北の国から』の視点について書かれたものは発見できなかった。

クラモチズム・スピリット

 『北の国から』で倉本聰が「“ものごとを金でかたづけずに手間をかけてかたづけることは、ビンボーなのではなく豊かなことなのである”ということを納得させてみせる!」と言っているように見えたので、発表では、そのような予断をもとに、トカイの生活に馴染んでいた純の変化を追って見てみた。
 純という男の子のことは、「トカイの生活では想像もしなかったような“メンドクサイものごと”や“ものごとに対するメンドクサイ考え方”に直面すると反射的に異議を唱えるが、五郎などに、麓郷という“自分のいま住んでいるところ”の現実に基づいた説明をされると、自分が反射的に拒否したものごとではあっても“なるほどその通りだな”と気付いてしまえるだけの判断力を備えながら、“東京”ではそういう価値判断能力を発揮する機会なく育ってきた子」だろうと想定した。
 想定の根拠として見てみたエピソードは五つ。
 a.「麓郷では金は必要ない」と五郎に言われたこと(二話)
 b.純が自分でガンビで上手に火をつけたこと(五話)
 c.水道の開通(八話)
 d.風力発電設備の製作(九話)
 e.自転車の話(一四話)

 それぞれの事例についてのコメントは、

 a.
→ 純は“作業をする”のでなく“金を使う”ことに慣れた手を持っているのだが、本人が自分であることの根拠に直結した、切実な欲望による使い方をしてきたわけではなさそうだ。
 b.
→ 純がガンビでの着火に成功したことにヨロコビを感じているのは、今後ひとりの人間として成長する第一歩であり根拠になるものだ。
 c.
→ 水道の開通は、かなりに大きな感動として位置づけられている。長いことかけて苦労して敷設したものだが、苦労した結果にできたものだと嬉しさもひとしおであるのはなぜかと問えば、人間というのはそういう構造になっているからだとしか説明できない(あらかじめ苦労をしていると脳内快楽物質の分泌量が増えるのだという話はあるが、しかし、なぜそうなっているかの説明にはならない)。労働というのは、そういう、人間にとって根本的な部分に触れる何かなのだろう。
 d.
→ モノを得るには“作業”が必要であることをわかった。
 e.
→ ともかく生活を続ける中にも“今の生活”とは別な選択肢も成立させることができるものだ、そういう可能性もアリなんだとわかったら、“今の生活”が何か、つまらない、しょうがないとしか思えないものだったとしても、諦めしか抱かないということはないだろう。純が麓郷へ行くまで絶対だと思っていた、あるいは思ってもいなかった(位置付けをするという発想もなかった)東京の生活というのも、実は選択肢の一つとしてありうるもので、それはそれとして成立しているものであり、麓郷の生活もそれはそれとして(純のような最初は明らかに不適合だと思っていたような人間も含めて)成立しているものだとわかったとき、改めて選択肢として見えはじめたさまざまな生活に対して、どういう評価を始めるものだろうか。

 それで、これに続けて、以下のことを言った。

 けっこう杜撰な現状把握でも(抽象的な現実としての金があれば)なんとか生活できてしまう“東京”で培われた現実感覚をひきずっていては、具体的で即物的で暴力的な(でもがんばればなんとか生活できてしまう)“麓郷”の現実感覚とは衝突せざるを得ないだろう。(このことは“環境と自分との関係の把握に関する手抜き”とか“自分や他人や他所についての想像力を支える体力の不足”とか形容しておいた。)しかしそれでも、結果としての衝突を衝突として感じることができていて、そのことを自分が「いやだ」と思ったなら、それは本人の中では改善される方向でしか動かないだろう(そう思わないとやってられない)。しかしなんとかなるにしても時間はかかるし、それは見てて多少つらいような気もするが、こういう期間に耐えるから成長というのはあるんだろう。
 これだけさまざまな、得難い、ちゃんとした経験を積ませておいて、しかし純がこのあとも「適当に現代的で、象徴的で典型的な、そのへんの男の子」という役割のまま放置されて、ちゃんとした成長をさせてもらえず、バカな若者にしか育たないのであれば『北の国から』に意味なんかないと思う。
 カッコいい男の子になってほしい。

 ……というわけで、こういう結論になっていたのだが、これを「自然観」のうちの〈手間とお金〉〈メンドクサイともったいない〉〈労働と対価〉というテーマで書いたものだと言うために、“現実”をどういうレベルで捉えるかという話を付け加える。
 ものを手に入れるには東京でも麓郷でも労働をしなければならないのだが、その労働の結果がお金という抽象的なものに置き換えられているのが“東京”。内容はどうであれ、働けばお金が手に入る。欲しがっているものが何であれ、お金があればそれなりに手に入る。つまり東京では労働の内容と得られるものとが直接の繋がりを持たない。一方、麓郷での労働は、最終的に手に入るべきものと直接に関係したものなので、自分が何を欲しがっているのか考え、それぞれの具体的現実的条件に従って行動しなければならない。自分が何を欲しがっていて、それを手に入れるためには具体的にどんな行動をとればいいのか、いちいち考えなければならないのである。しかし東京ではそのような考えはすっかり不要であることになってしまっており、そのことを意識しないで生活はできて、むしろよけいなことを考えているとその生活スタイルからは外れてしまう。
 ものを得るために必要なものが作業(即物的なもの)なのかお金(抽象的なもの)なのかというのは、麓郷と東京それぞれの環境・社会に適応した考え方・ライフスタイルなので、どちらがいいと一概に言えるものではない。だから、考えるとすれば、それぞれの社会がどのような成立をしているのか、という問題である。

 さてここで養老孟司の文章を引く。(「成田とはなにか」『中央公論』一九九四年一二月号)
〈成田空港問題で私が強く連想するのは、じつはアウシュヴィッツである。それは一体、どういうことか。
 来年は戦後五十年だが、戦争はともかく戦争だった。しかし、そこで生じたできごとで、枢軸国が問答無用に非難されることがある。それを象徴するのがアウシュヴィッツであろう。
 ところが、ナチスがその点で強く非難されることによって、おそらく隠れてしまった問題がある。それは、三百万人という数のユダヤ人が、なぜいわば「黙って」殺されることになったか、その問題である。私はそれで成田を連想する。成田の農民のような抵抗が、なぜそこにないのか。
 ユダヤ人は都会の民である。農民としてのユダヤ人はいない。彼らは銀行家であり、学者であり、芸術家であり、ジャーナリストであり、商人であったかもしれないが、少なくとも「地つき」の農民ではなかった。かれらは典型的な「脳化社会」の住民なのである。
 成田が私に教えてくれるように思われるのは、そのことである。自然から離れ、都市に住むことによって、人は安全と幸福を手にする。しかしそれは、当然ある代価なしには済まない。脳化社会には、ある危うさが本来存在する。なぜなら、脳化社会はあくまでも脳が造った約束ごとの世界であり、それはその内部に住む人間にとっては、しばしばすべてだが、外部の人間にとっては、ほとんど無意味かもしれないのである。
 脳化社会に育った人間は、まさに羊に変わる。「当為」すなわち「かくあらねばならない」は、脳化社会にしか通用しない。たとえば自然に対して当為を説いてもムダである。しかし、脳化社会に育つ人は、しばしばその感覚を失う。だから約束ごとを失った世界では、脳化社会の住民は、自分がどう行動したらいいのか、まったくわからなくなるのである。〉
 ここでは別にこういう状態がいいとか悪いと言っているのではないのだが、人の行いが具体性を離れる一方なのは、少なくとも自分には、どこか何か、うまく言えないが、どうもよくない雰囲気を含むことのように思えてしまう。
 倉本聰が、文明社会というか科学や工業の発展の成果であるところのテレビの恩恵を受けていながら、しかしそれでも都会の生活はどうのこうのと言っているのも、そういう(脳化社会化する)傾向にイヤな感じをおぼえているからだろう。
 西垣通も『ペシミスティック・サイボーグ 普遍言語機械への欲望』(青土社)のなかで言っている。人類文明の歩みを辿ってみると、どうやら一貫して「意味=イメージ」、つまり、世界のすべてを論理的に記述してしまう“普遍言語機械”としての「コンピュータ(特に人工知能)」に象徴される、サイボーグ的な、身体性や土着性・固有性といったものから最も遠いものを指向してきたように見える。(ここでも“ユダヤ=キリスト教文化”のもつ傾向のことが延々と論じられている。)その“サイボーグ化”は、全体的傾向としては、どうしようもなくどうしようもない性向のように思えるが、「もしそれが避けがたい定めだとすれば、私はせめて、ペシミスティックなサイボーグになりたい」と。人間存在を簡単に論理で掬いきれると思うことは危険であり、「こと人工知能やサイボーグに関するかぎり、ペシミスティックであることがかえって肯定的な生への道をひらくのである。本書の中心的メッセージはこれ以外にはない」と言うこの人は、この本だけでなく、あちこちで、「テクノロジーばんざい」と安直に言うような能天気な発想に釘を刺して回っている。岩波新書の『マルチメディア』では「人間の創造性を刺激する“現場のノリ”を伝えられないようなダサいモンを“マルチメディア”なんて呼ばせてたまるか!」という意味のことを言っている。 どうやら“人間が生きて行くことの全体的な創造性”とでもいうようなものに期待しているようだ(その支援装置としてコンピュータを位置付けようとしている)。
 これは、別な言い方をすれば“評論”よりも“作品”を指向したい、ということだろう。語られない領域を膨大に含んだ豊かな生を生きたい、という欲望は、おそらく、倉本聰が言っていることと根拠を共有している。その根拠(生きる歓び?)は、それぞれの人の中からそれぞれに引き出すことしかできないものだ。そして、それがうまく出てくるような世界を作ることが“作家”の仕事なのだろう。
 倉本聰は、都会のようすを見ててもつまらない(というか、嬉しくならない)から『北の国から』なんか作ったにちがいない。つまり、もともとの発想が“反・つまんない社会”なのだ。トカイで支配的な価値観に対してのアンチだから、その意見を提出する先は当然トカイになる。というわけで倉本聰は「こういうのもいいと思わない?」と、都会で支配的な価値観とは違う価値観を、テレビという文明装置を使って、都会の人々に提示したのである。
 こう書いたら、自分にとっての“倉本聰”の印象は多少よくなった気がする。そういうことならまあ、殊更に“イナカがいいのだ”と言いがちにもなるかもしれない。本人の言いたいこと(指向する方向)は納得できた。結果として見える作品そのものの評価とはぜんぜん別な話だけれど。

(松永洋介)

松永洋介 ysk@ceres.dti.ne.jp