寮美千子『父は空 母は大地』と
柳美里『8月の果て』の類似

2010年10月25日

▼2007年5月9日

  1. 『父は空 母は大地』より

    川を流れるまぶしい水は
    ただの水ではない。
    それは 祖父の そのまた祖父たちの血。
    小川のせせらぎは
    祖母の そのまた祖母たちの声。
    湖の水面にゆれる ほのかな影は
    わたしたちの 遠い思い出を語る。

    川は わたしたちの兄弟
    渇きをいやし
    カヌーを運び
    子どもたちに 惜しげもなく食べ物を与える。

    わたしの体に 血がめぐるように
    木々のなかを 樹液が流れている。

    寮美千子編訳『父は空 母は大地』(パロル舎、1995)該当部分の抜粋

  2. 『8月の果て』より

    川の水がヌンブシダまぶしい (略)この川の水はただの水じゃない 春になるたびにウノあゆを釣り 夏になるたびに飛び込んで泳ぎ 冬になるたびに氷の上を滑っただけじゃなくて オモニおふくろがおれのおむつを洗濯し ハルメばあさんがオモニの胎盤を流し ヌナねえさんおぼれ アボジおやじチョッカおいの遺骨を溶かした川の水だ おれのからだに血がめぐっているように おれのこころにはこの川の水が流れてる

    柳美里『8月の果て』(新潮社、2004)468頁 比較のため「すっすっはっはっ」をコメントアウト

 『8月の果て』が連載されていたころ、朝日新聞をとっていたので、「『すっすっはっはっ』でずいぶん稼いでるなあ」と思いながら、ときどき見ていました。それで、この部分が目にとまっていたのでした。

 単行本が出てから確認すると、文章はやはりこのままで、しかも、巻末の長大な参考書リストには、『父は空 母は大地』は挙げられていません。本人には「参考にした」という意識はないのかもしれません。連載中から盗作騒動(一般の人の作ったサイトの文章を無断使用していた)とかあったし、そういう体質の人なのかなあ、と思います。


▼2010年10月25日

 柳美里が『8月の果て』連載中に書いたエッセイで、『父は空 母は大地』を読んで感動したことを述べ、本文を大胆に引用しているのを発見しました。

『父は空 母は大地』(パロル舎)を読み、その言葉のあまりの美しさに危うく涙がこぼれそうになる。
 1854年、アメリカ政府は3年間に及ぶ先住民たちとの戦いの末、彼らの土地を買収し居留地を与えると申し出る。スクオミッシュ族とドゥワミッシュ族の部族連合の代表であるシアトル首長はこれ以上戦いつづけることはできないと判断してこの条約に署名し、大統領に伝えてほしいと演説を行う。『父は空 母は大地』は、その演説の抜粋である。
〈はるかな空は 涙をぬぐい
 きょうは 美しく晴れた。
 あしたは 雲が空をおおうだろう。
 けれど わたしの言葉は 星のように変わらない。
 ワシントンの大首長が
 土地を買いたいといってきた。
 どうしたら 空が買えるというのだろう?
 そして 大地を。
 わたしには わからない。
 風の匂いや 水のきらめきを
 あなたはいったい
 どうやって買おうというのだろう?(中略)
 最後の赤き勇者が
 荒野とともに消え去り
 その記憶をとどめるものが
 平原のうえを流れる雲の影だけになったとき
 岸辺は 残っているだろうか。
 森は 繁っているだろうか。
 わたしたちの魂の ひとかけらでも
 まだ この土地に残っているだろうか。(中略)
 もし わたしたちが どうしても
 ここを立ち去らなければ ならないのだとしたら
 どうか 白い人よ
 わたしたちが 大切にしたように
 この大地を 大切にしてほしい。
 美しい大地の思い出を 
 受けとったときのままの姿で
 心に 刻みつけておいてほしい。
 そして あなたの子どもの 
 そのまた 子どもたちのために
 この大地を守りつづけ
 わたしたちが愛したように 愛してほしい。
 いつまでも。
 どうか いつまでも。〉

柳美里『交換日記』(新潮社、2003)313・314頁「2002年12月30日」の項 初出『新潮45』2003年5月号

 元の文章を勝手に改行したり、逆に改行を取ったり、行アケを無視している箇所が。適切な引用とは言えません。分量的にも、ちょっとどうかなというレベル。その挙句に、前回書いたような真似っこをする。どうみても、お行儀がいいとは言えません。

松永洋介 ysk@ceres.dti.ne.jp